パナソニック汐留美術館で開催中の「ジョルジュ・ルオー – かたち、色、ハーモニー」展に行ってきた。
この展覧会は開館20周年記念展として開催されているものだ。
ジョルジュ・ルオー
–かたち、色、ハーモニー−
2023年4月8日(土)〜6月25日(日)
会場:パナソニック汐留美術館
主催:パナソニック汐留美術館、NHK、NHKプロモーション
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本、港区教育委員会
協力:日本航空
特別協力:ジョルジュ・ルオー財団
このパナソニック汐留美術館は、フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871-1958)の作品を所蔵していることで有名である。当館のホームページ上の情報によると、
「フランスを代表する20世紀の画家ジョルジュ・ルオー(1871〜1958)による初期から晩年までの絵画、そして『ミセレーレ』、『流れる星のサーカス』、『悪の華』などの代表的な版画作品を合計約260点収蔵しています。
館内のルオー・ギャラリーでは、初期から晩年までのルオーの代表作を常時テーマ展示しています。」
とある。
なるほど、さすがに260点もの作品を収蔵しているとは、相当なコレクションである。
この開館20周年の記念展のテーマに、ルオーが選ばれたのは当然のことなのかもしれない。
今回の展覧会では、パナソニック汐留美術館の所蔵品のほかに、ジョルジュ・ルオー財団、パリのポンビドゥー・センター国立近代美術館などから出品も含め、なかなか見応えのある展覧会になっている。
ルオーといえば、という、誰もが思い浮かべる作風の作品のほか、師であったギュスターヴ・モローや、その他レンブラント・ファン・レイン、ニコラ・プッサン、アントワーヌ・ヴァトー、カミーユ・コロー、ひいてはポール・セザンヌ、アンリ・マティスといった画家に影響を受けたとみられる、全く異なる作風の作品も展示されている。
ルオーと1900年パリ万博
この展覧会の図録の中に収められている「モローからセザンヌまで ―ジョルジュ・ルオーのふたつの手本」というアンゲラ・ランプ氏(ポンピドゥ・センター、パリ/国立期近代美術館 近代美術コレクション学芸員)の論文の中には、「ポール・セザンヌ」という中見出しの中に、「確かに、ルオーは、エクス=アン=プロヴァンスの巨匠、セザンヌと親しさを感じていた。実際に会ったことはなかったが、1900年にはすでに、パリ万国博覧会でセザンヌの油彩を目にし、・・・」とある。
ルオーは1900年パリ万博でセザンヌの油彩を目にしていたのだ。
この時、万博に出品されていたセザンヌの作品とはどんな作品だったのだろうか。
いろいろと調べてみたが、現状では、セザンヌは静物画と風景画あわせて3点を出品した、ということまでしかわかっていない。
1889年パリ万博の際は「首吊りの家」1点を出品していることはわかっているが、この3点については具体的にはどんな作品だったのだろうか。
調べてもなかなかたどりつかない。万博亭には1900年パリ万博の「10年展」のカタログは所蔵しているが、「100年展」のカタログはない。
そこでネットでいろいろと調べてみる。Chat GPTやPerplexityも使ってみたが、まだまだ情報の信憑性には問題があるようだ。なかなか確信が持てない。
しかし、とうとう、「ポール・セザンヌ協会」(Société Paul Cézanne)というサイトにたどりついた。
このサイトの年表の1900年のところをみると、4月15日〜10月15日のところにパリ万博の記述があり、そこに「セザンヌの絵画3点が展示された」という情報を発見した。
その3点とは、
— 静物画: 果物 “Nature morte: fruits”(ヴィオー氏所蔵)ーフルーツボウルのある静物画
— 風景 “Paysage”(ペレリン氏所蔵) ーヴァルヘルメイユ、オワーズ川岸の風景
— 私の庭 “Mon Jardin” (ヴォラール氏所蔵) ージャ・ド・ブファン盆地
という記述が確認できた。
ところで、この1900年パリ万博ではルオー本人も出品している。まだ、29歳くらいなので、相当に若くして万博に出品が認められたということになろう。
今回の展覧会図録の後ろの方に掲載されている、角田かるあ氏編の年表によると、1900年、29歳のところに、
「グラン・パレで開催されたパリ万国博覧会美術展に、《学者たちの間の幼きイエス》を出品し、銅メダルを受賞」
とある。
いきなりの出品でいきなりの銅メダルとは大したものだといえよう。ルオーも万博の受賞者だったのだ。
実は私が万博亭に秘蔵している某フランス語の資料で調べてみると、この《学者たちの間の幼きイエス(L’Enfant Jésus parmi les Docteurs)》だけでなく、ルオーはもう一点出品が認められていて、合計2点を出品している。そのもう一つの作品とは《キリストとエマオの弟子たち(Christ et disciples d’Emmaüs)》という作品であった。
ネットで検索すれば、両方の絵とも見ることができるので、ご興味のある方は調べてみてほしい。
素人目で見た感想ではあるが、どうも、銅メダルをとったほうの《学者たちの間の幼きイエス(L’Enfant Jésus parmi les Docteurs)》は、モローの影響が大きく、一方、《キリストとエマオの弟子たち(Christ et disciples d’Emmaüs)》の方は、これはもしかしたらルオーの作品かも、という感じの、我々の知るルオーの作風が漂っている作品である。
ちなみに、「エマオ」というのは地名であって、復活したイエス・キリストが現れた、エルサレムから11km離れた町、ということである。
この、図録の年表であるが、ルオーと万博に関する記述は1900年パリ万博にとどまらない。
1925年パリ万博(アール・デコ博)とルオー
1925年パリ万博(アール・デコ博)、ルオー54歳のところには、
「4月、パリで開催された現代産業装飾芸術国際博覧会(アール・デコ博)での美術展に『ユビュおやじの再生』から作品の一部を展示」とある。
またしてもネットで『ユビュおやじの再生(Reincarnations du pere Ubu)』を検索すると、独特なタッチでのモノクロの作品群が現れた。初めて見てこれはルオーの作品、と当てるのはちょっと難しいかもしれない作品たちだ。
また、年表にはその後に「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章」とある。
この時期には、すでにルオーは国家からもちゃんと認められた存在になっていたことがわかる。
1937年パリ万博とルオー
さらに年表に戻って、1937年パリ万博が開催された年(ルオー66歳)に目を移してみると、「パリ万国博覧会会期中に、プティ・パレにて『アンデパンダン芸術の巨匠たち』展が開催され、ルオーに一室が与えられる。1905年以来の画業を代表する油彩画42点を出品した。」
とある。
万博の美術展で一室を与えられるとはすでに巨匠の域に達していたのだろう。
同じ1937年パリ万博でファン・ゴッホに「数室」が与えられた話や、古くは、1855年の第1回パリ万博時にドラクロワ、アングル、ドゥカン、ヴェルネの4人の画家にそれぞれ1室が与えられた話、また、1867年第2回パリ万博時にミレーに1室が与えられた逸話が思い出される。
ルオーと万博、といってもあまり関連づけてイメージする人は少ないだろう。
この展覧会にも、ルオーが万博に出品したと図録で解説されている作品は残念ながら展示されていない。
しかし、万博好きのみなさんであれば、多くのルオーの名品を見ながら、万博にルオーの作品が展示されているところを想像するのも楽しいのではないだろうか?
この「ルオー展」の機会に、ぜひ一度パナソニック汐留美術館を訪れていただくことをおすすめしたい。