<19>「マリー・ローランサンとモード」展

1925 Paris Expo
展覧会入り口のサイン Sign of the Entrance of the Exhibition

渋谷のBunkamuraが休業

先日訪問した「東急歌舞伎町タワー」。なかなか迫力のあるビルで、何より立地がユニークである。

このビルの名前にも「東急」と入っている通り、東急と東急レクリエーションが事業主体ということである。

東急といえば、今年2023年の1月31日(火)、渋谷の東急百貨店がクローズした。

ホームページには、


渋谷・東急本店は、2023年1月31日(火)をもって営業を終了いたしました。
お客様、渋谷の街、地域の皆様とともに紡いできた55年間に、
心から感謝申しあげます。
本当にありがとうございました。

とある。

そして、隣接する東急文化村もクローズした。

東急文化村のホームページを開くと、


Bunkamuraは2023年4月10日(月)より2027年度中(時期未定)まで、オーチャードホールを除き休館中です。
今後の公演・企画の最新情報はホームページをご覧ください。

と出てくる。
つまり、Bunkamuraのザ・ミュージアムも休館している。

ホームページには


Bunkamuraザ・ミュージアムは2023年4月10日より2027年度中(時期未定)まで休館中です。
休館中は他会場にて展覧会をおこないます。展覧会ラインナップはこちらをご覧ください。

とある。

現在ならびに今後は寺田倉庫G1ビル、渋谷ヒカリエにあるBunkamura Gallery 8/ やヒカリエホールなどで展覧会等を開催するようである。

今後東急百貨店やBunkamuraがあった場所がどういった展開になっていくのか、具体的には現時点ではよくわからないが、この休館前の記念すべき最後の展覧会に筆者が訪れたのは、3月末のことであった。

「マリー・ローランサンとモード展」

その展覧会とは

「マリー・ローランサンとモード展」である。

マリー・ローランサンとモード展
[東京会場]
2023年2月14日(火)―4月9日(日)
Bunkamura ザ・ミュージアム
主催:Bunkamura
日本経済新聞社
後援:TOKYO MX
TOKYO FM

東京会場はすでに終了したが、その後、京都会場(京都市京セラ美術館 2023. 4/16 – 6/11)、名古屋会場(名古屋市美術館 2023. 6/24 – 9/3)へ巡回している。

マリー・ローランサン(1883 – 1956)といえば、パリで生まれた画家である。多くの人は名前も聞いたことがあるだろうし、彼女の絵を見れば、「ああ見たことがある」と思われるのではないだろうか。

彼女の生まれた年をみると1883年。エッフェル塔ができた第4回目のパリ万博が1889年に開催されたが、その時は6歳くらいだった。そして1900年パリ万博の時は17歳くらいだったということだ。

ずいぶん遠い歴史の中の人物のように見える。

しかし、死亡年をみると1956年。
万博史的に見ると、1958年にブリュッセル万博が開催されているが、その直前である。
鉄の分子構造を模したシンボルタワーの「アトミウム」や、ル・コルビュジエの「フィリップス・パビリオン」で有名なこの1958年ブリュッセル万博に続いて行われたのが、1962年のシアトル万博、その次が1964年ニューヨーク万博、1967年モントリオール万博、1968年へミス・フェア(米国サン・アントニオ)、そして大阪万博が1970年。

こうしてみると、そんなに昔の歴史上の人物とも思えない。

まさに19世紀から20世紀まで活躍した画家といえるだろう。

マリー・ローランサンと1925年「アール・デコ博」

さて、なぜ筆者がこのマリー・ローランサンの展覧会の話を書いているか、もうおわかりだろう。そう、彼女も万博に出展していたのである。

1900年パリ万博のころにまだ17歳くらいだったローランサンだが、1925年のパリ万博にはアーティストとして参加していたのだ。

この1925年のパリ万博は、通称「アール・デコ博」と呼ばれる。

フランス語の正式名称は、

Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes

である。

日本語に訳すと「装飾芸術・現代産業万国博覧会」となる。

マリー・ローランサンはこの万博に参画していたのである。

今回の展覧会には、

『1925年アール・デコ博、フランス大使夫人の部屋の装飾 「ヴォーグ誌」(フランス版)1925年9月号掲載』

という雑誌が展示されていた。

今回の展覧会図録には、もう少し詳しい情報が出ている。下記引用する。(P43)


…絵画や彫刻などの純粋芸術に比べ、工芸や染色、そしてファッションなどの装飾美術は、一段低い扱いを受けていた。その状況を打破すべく1925年にパリで開催されたのが、現代産業装飾芸術国際博覧会、いわゆる「アール・デコ博」である。初芸術の平等という理念のもと、芸術と生活を結びつけるために「アンサンブル」という展示方法を用いたこの博覧会で、ローランサンは美しくデザインされた室内空間に調和する絵画作品を提供し(cat.no.II-25)、大きな話題を呼んでいる。

ちなみに、あの、ココ・シャネル(1883 – 1971)もローランサンと同じ1883年生まれであり、アール・デコ時代をともに生きた、当時の「新しい女性」だった。

しかし、この2人の関係は、ジャン・コクトー(1889 – 1963)、パブロ・ピカソ(1881 – 1973)など共通の友人が多くいたにもかかわらず、あまり良好なものではなかったようである。

それを象徴する決定的な作品が今回の展覧会にも出展されている。

『マドモアゼル・シャネルの肖像』(Portrait of Mademoiselle Channel 1923年)

というのがそれである。

展覧会図録の解説によると次のようにある。


…ココ・シャネルも自身の成功の証にローランサンに肖像画を依頼したが、本作の出来上がりに満足せず、描き直しを要求した。一方でローランサンも譲歩しなかったため、シャネルが本作を受け取ることはなかった。ローランサンはのちにこのように語ったと伝えられている。「シャネルはいい娘だけど、オーヴェルニュの田舎娘よ。あんな田舎娘に折れてやろうとは思わなかった。」

なかなか強烈な応酬である。

しかし、そういいながら、ローランサンはココ・シャネルの服を愛用していたらしい。

ちなみに、ココ・シャネルと1925年「アール・デコ博」の関係であるが、今回の図録の解説(P19、カトリーヌ・オルメン氏による)には、

「彼女は1925年の博覧会には参加しなかった。」

とある。

しかし、別の資料(『アール・デコの世界1 パリ アール・デコ誕生」P75)には

「1925年という年でシャネルをとらえてみると、アール・デコ展(筆者注:「アール・デコ博」のこと)に服を出品し、…」

という記述があるので、参加した可能性もあるようだ。

こういう相反する記述のある資料に出会うことも万博史ではよくある。果たしてどちらが正しいのか。

一般的には「参加しなかった」ということを証明するのは難しい。一つでも参加の具体例が見つかれば、それは正しくないということになってしまうからだ。

当時すでにパリを席巻していたシャネルや彼女の作品が何らかの形で全くこの万博に関係しなかったとは考えにくいかもしれない。しかし、この「服を出品し、…」の具体的事例を確認するまでは現時点ではまだわからない。

マリー・ローランサンとニコル・グルー、そして、アンドレ・グルー

さて、話はかわるが、今回の展覧会には、ニコル・グルー(1887 – 1966)をモデルにした作品も何点か出ている。

ニコル・グルーという女性は、当時「ファッション界の帝王」といわれたポール・ポワレの3人の妹のうちの末娘であり、ローランサンが最も愛し、信頼したといわれている女性であった。

今回の展覧会図録にも「…ニコルはマリー・ローランサンの親しい友人(恋人)であり…」という記述(P139)が見受けられる。

マリー・ローランサン『ニコル・グルーと二人の娘、ブノワットとマリオン 1922年
Marie Laurencin “Nicole Groult and Her Two Daughters Benoîte and Marion

実は、このニコル・グルーの夫は建築家のアンドレ・グルーという人物である。

そして、彼は、この「アール・デコ博」において、「フランス大使館」というパビリオンを手がけたのである。

そしてこの「フランス大使館」パビリオンの一部が「フランス大使夫人の部屋」である。

つまりニコル・グルーの夫・アンドレ・グルーの手がけた「フランス大使夫人の部屋」にローランサンの絵画が飾られた、ということになる。

そして、それこそが、先ほどご紹介した、今回の展覧会で展示されている『1925年アール・デコ博、フランス大使夫人の部屋の装飾 「ヴォーグ誌」(フランス版)1925年9月号掲載』という資料の中にある、ローランサンが手がけた絵画作品である。

マリー・ローランサン、ニコル・グルー、アンドレ・グルーという3人の実際の関係はよくわからないが、自分の恋人の夫が手がけたプロジェクトに参画する、というちょっと複雑な事情を抱えた「万博出展」だった、ということかもしれない。

「フランス大使館」パビリオンの場所は?

さて、この「フランス大使館」パビリオンだが、筆者の持っている「アール・デコ博」の会場図面を確認しても、見当たらない。

日本館や、後述するソビエト連邦館や、ボン・マルシェ等の百貨店のパビリオンなどは確認できる。また、これも後述するル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー館(新精神館)」も確認できない。

なので、この「フランス大使館パビリオン」や「エスプリ・ヌーヴォー館」は、もしかしたら、グラン・パレ側のセーヌ河岸の「フランス村(Village Français)」という出展エリアに出展していた可能性もある。「フランス村」という出展エリアはいくつかのパビリオンからなっている様子が図面からはうかがえるので、フランス関連展示ということで「フランス村」に出展されたのではないか。

ちなみに、この「フランス大使館パビリオン」は、実際の設計はロベール・マレ=ステヴァン(1886 – 1945)という、アール・デコ博のもっとも中心的な建築家というべき人物がおこなった。そして、パビリオンには、画家フェルナン・レジェ(1881 – 1955)が、ロベール・ドローネー(1885 – 1941)と共に装飾画を担当した。

また、レジェはこの「アール・デコ博」において、ル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー館」《後述<20>》にも壁画を描くことで参画したのであった。

(以下、<20>1925年パリ「アール・デコ博」とは につづく)

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