「テート美術館展 光 ターナー、印象派から現代へ」の初日を狙う
我々(筆者と助手0号)が「テート美術館展」視察のために六本木の国立新美術館へ向かったのは7月12日(水)、「テート美術館展」開催初日のことであった。
開館の10時を目指して行くが、10分前くらいに到着する。
すでに暑く、外を歩いているだけで汗が出てくる。
世界気象機関(WMO)によると、今年6月が史上最も暑くなり、7月7日には世界の平均気温が最高値を更新したということである。
温暖化もいよいよ我々の実生活に影響を与えてきたか、そんなことを感じる暑さだ。
さて、なんとかたどりついた美術館の中は涼しく、入っただけでちょっと助かった気がする。
荷物をロッカーに入れて2階にエスカレーターで向かう。
ちなみに1階ではまだ「蔡國強展」が開催されている。
すでに10メートルくらいの並び列ができていたが、思ったほどではなく、10時になるとスムーズに入ることができた。
1ヶ月前くらいにすでににネットで前売り券を買っていたので、スマホのQRコードで入場。
楽である。
さて、今回の美術展はどんな(万博的)発見があるか、楽しみである。
ロンドンのテート美術館
ロンドンのテート美術館には何度か訪れたことがある。
最初に訪れたのはもう30年以上前のことになる。
テート・ブリテンに最後に訪れたのは2019年秋。コロナウィルスのパンデミックが起こる直前で、今にして思うと、あの時ロンドンに旅行しておいてよかったなと思う。
セント・ジェームズ公園近くのホテルに泊まったので、テート・ブリテンは歩いても行ける距離だ。久しぶりに訪れた美術館は、やはり、ターナー(1775-1851)やコンスタブル(1776-1837)をはじめとして素晴らしい作品がたくさんあり、つい長い時間を過ごしてしまう。
2019年9月11日から2020年2月2日の間には、今回の展覧会にも出品されているウィリアム・ブレイク(1757-1827)の展覧会も催されていた。
テート・モダンには2016年に行った。この時は出張だったが、ちょっと時間が空いたすきにタクシーを飛ばして行ってきた。
この発電所だったところを改築して作ったというテート・モダンは日本でも以前から評判になっており、一度は行ってみなくては、と思っていたのである。
テームズ川沿いに立つ、古い工場の煙突のような四角い高い塔が目を引く、一眼で美術館のために作られたのではなさそうな建物(旧発電所)のビルを活用した、2000年に開館した美術館である。
設計はヘルツォーグ&ド・ムーロン(北京国家体育場「鳥の巣」も設計。<27>「蔡國強 宇宙遊 ―〈原初火球〉から始まる」展参照)。
2019年にロンドンを再訪した際には、テムズ川の遊覧船よりテート・モダンの建物を見ることができた。
テート美術館はこの2つかと思っていたが、今回の美術展の解説によると、あと2つあることがわかった。それは、「テート・リバプール」と「テート・セント・アイヴス」であった。
さて、今回の展覧会は「光」をテーマにして、約120点の作品が展示されている。
時代的にはウィリアム・ブレーク、ターナーやコンスタブルから現代の作家まで幅広い。
いずれも「光」というテーマを感じさせる作品が選ばれている。
クロード・モネと万博
クロード・モネ(1840-1926)の『エプト川のポプラ並木』、『ポール=ヴィレのセーヌ川』といった作品もあった。
モネも万博とはゆかりの深い画家である。
1889年パリ万博においては、シャン・ド・マルスの「パレ・デ・ボザール」で「フランス絵画の回顧100年展」が開催された。
これは、1789年のフランス革命時から今回の万博開催年である1889年までの油彩画652点、彫刻140点が「パレ・デ・ボザール」にて展示されたものであったが、その展覧会にマネ、ピサロ、セザンヌなどとともに、『チュイルリー公園』など3点のモネの作品も展示されていた。
また、万博に関連するモネの作品には、『パリのモントルグイユ街、1878年6月30日の祝祭』がある。
これは1878年5月20日から開催されていた第3回のパリ万博の成功を祝って祝日になった6月30日の、フランス国旗で満たされたパリの賑わいを描いたものである。
この作品は、すでに始まっていた1878年パリ万博には展示されなかったが、ほぼ同じ構図の『サン=ドニ街、1878年6月30日の祝祭』とともに翌年の第4回印象派展に出品されている。
そして、モネは次の第4回目となる1889年パリ万博では、前述のように3点の作品の出展を果たすことになるのである。
また、モネは、この万博に出展されたマネの『オランピア』がアメリカに売却されるという話を聞き、2万フランを目標にして募金活動をして海外流出を防いだという逸話も残している。
モネと「睡蓮」の出会い
じつはモネはこの1889年パリ万博である運命的な出会いを果たしていた。
それはモネと「睡蓮」との出会いであった。「睡蓮」といっても作品名ではなく、植物の「睡蓮」である。
この話は、拙著『万博100の物語』(2022年 ヨシモトブックス)の第40話「モネの『睡蓮』も万博から生まれた!?」に詳しく書いたので、ご興味のある方はそちらをご覧いただきたいが、
下記、要点をご紹介しよう。
当時のフランスでは睡蓮の花といえば「白色」のものしかなかった。
しかし、ジョセフ・ボリィ・ラトゥール=マルリアック(1830~1911)という人物が交配によりピンクの睡蓮をつくることに成功し、その後、その色は増えていった。
その新開発のいろいろな色の睡蓮をラトゥール=マルリアックが出品したのが1889年パリ万博であった。
この展示は大評判になり、それを見たモネが、その後自分で様々な睡蓮を栽培し、それを作品に描いた、ということになる。
つまり、誰もが知るモネの『睡蓮』の連作も、1889年パリ万博での運命の出会いが始まりだった。パリ万博における新しいタイプの睡蓮との出会いがなければ、この一連の傑作は誕生しなかったかもしれないのだ。
ハマスホイの作品
さて、モネと万博に関するそんなエピソードを思い出しながら、会場を歩いて行くと、一目でヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)の作品、とわかる作品が2点あった。
『室内』(1899年)、そして、『室内、床に映る陽光』(1906年)という作品である。
展覧会図録の『室内』の解説には次のようにある。(P106)
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…この作品は、コペンハーゲンのストランゲーゼ30番地にあるハマスホイの自宅の一室を描いたものである。17世紀に建てられたこの家に、妻・イーダと引っ越してから時を隔てず、画家はこの作品を制作した。ハマスホイはこの家の部屋を60回以上描いており、多くの場合人物は描かれていないが、本作品のようにイーダをモデルにした人物が空間を占めることもある。(以下略)
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静謐な室内を描いた作品である。
ハマスホイのこの独特なテーストには、知らず知らず引き込まれてしまう。
この2点の作品だが、両方ともどこかで以前見たような気がする、あるいは同じような構図のものを見たのではないか、と思う。
実は、ハマスホイはこの部屋を60回以上も描いており、この絵にも後ろ姿で描かれている妻・イーダもモデルとして多く描いていたわけなので、同じような絵を見ていても不思議ではない。
2020年に開催されていた「ハマスホイとデンマーク絵画」展
実は、東京都美術館で3年前の2020年1月21日から3月26日まで「ハマスホイとデンマーク絵画」という展覧会が開催された(その後、4月7日〜6月7日山口県立美術館へ巡回)。
その時も助手0号とともにに訪れたが、その時のハマスホイの作品の印象が大きかったのである。
しかし、「ハマスホイ」、「デンマーク絵画」、と言われても、普通の人はあまり親しみがないだろう。
この展覧会の図録の「ごあいさつ」(Foreword)には次のようにある。
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1900年前後、ポスト印象派、象徴主義、キュビスム、表現主義など、ヨーロッパで世紀末芸術が多彩な展開を見せていた頃、デンマークの首都コペンハーゲンでは、画家ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)がそうしたメインストリームの“喧騒”から離れて、身近な人物の肖像や風景、静まりかえった室内など、限られた主題を黙々と描いていました。
その独自の静謐な絵画によって、デンマーク国内外で高い評価を得たハマスホイ。没後、一時は時代遅れの画家と見なされ忘れられた存在だったものの、1990年代末以降欧米の主要な美術館で次々と回顧展が開催され、現在再び脚光を浴びています。日本においても2008年に初の展覧会が開催され、国内の美術ファンに強い印象を残しました。
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この、ハマスホイが「黙々と描いていた」という「静まりかえった室内」の数々が、なぜか妙に心に沁みるのである。
もしかしたらハマスホイはフェルメール(1632-1675)などの17世紀のネーデルランドの画家の影響を受けているかもしれない。繰り返し描かれる室内、光、女性のモデル、と共通点は多い。
ちなみに、この時の展覧会は4つのパートにわかれていた。
1 日常礼賛 − デンマーク絵画の黄金期
In Praise of Everyday Life − The Golden Age of Danish Painting
2 スケーイン派と北欧の光
Light, Landscape and the Artistic Life of Skagen
3 19世紀末のデンマーク絵画 − 国際化と室内画の隆盛
Turn of the Century − Diversity and the Rise of Painting Interiors
4 ヴィルヘルム・ハマスホイ − 首都の静寂の中で
Vilhelm Hammershøi − In the Urban Solitude and Silence
先ほど引用した「ごあいさつ」(Foreword)の続きには、次のようにある。
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国連による「世界幸福度ランキング」で何度も1位に輝くなど、今日のデンマークは「幸福の国」としても知られています。19世紀に描かれた何気ない日常の光景に、デンマーク人が大切にしている価値観「ヒュゲ」(hygge:くつろいだ、心地よい雰囲気)の原型を見つけることができるでしょう。(太文字は筆者による。以下同)
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この展覧会の「3 19世紀末のデンマーク絵画 − 国際化と室内画の隆盛」では、この「ヒュゲ」を感じさせる作品が何枚か展示されていた。その代表的なものがヴィゴ・ヨハンスン(Viggo Johansen)の『きよしこの夜』(Silent Night)という作品である。
明るいクリスマスツリーの周りを親子が数人で手を繋いで囲んでいる。この、くつろいだ、楽しげな雰囲気が「ヒュゲ」ということだろう。
そして、最後の「4 ヴィルヘルム・ハマスホイ − 首都の静寂の中で」では、ハマスホイの絵が37点も展示されていた。
風景画や家の外観を描いた作品もあるが、やはり気になるのは室内を描いた作品である。
いくつかの作品では、家具など何もないがらんとした、ドアが開け放たれた室内が描かれている。
引越しで長年住んだ部屋の荷物を運び出してしまった後の部屋のような、もうこの部屋に戻ってくることはないのだ、といった寂しげな雰囲気もある。
この展覧会でも室内とそこにいる妻・イーダの後ろ姿を描いた作品が3点展示されていた。
イーダは後ろ姿を描かれた作品が多く、もしかしたら、「顔出しNG」のモデルなのかと思う方もいらっしゃるかと思うくらいだが、実は、この2020年の展覧会では、イーダの顔が正面から描かれた作品も数点出展されていた。
『室内、床に映る陽光』と『室内 − 陽光習作、ストランゲーゼ30番地』
また、今回の「テート美術館展」に展示されている『室内、床に映る陽光』(1906年)であるが、2020年の「ハマスホイとデンマーク絵画」で、全く同じような作品が出展されていた。
その作品名は『室内 − 陽光習作、ストランゲーゼ30番地』(1906年)である。
この2つの作品はどちらも1906年に描かれたもので、『室内 − 陽光習作、ストランゲーゼ30番地』の方は、東京都美術館では、展覧会の大型サインのモチーフとして使われていた。
一瞬同じ作品かも?と思って調べると、この『室内 − 陽光習作、ストランゲーゼ30番地』はテート美術館所蔵ではなく、「デーヴィズ・コレクション」とある。
さらに、今回のテート美術館の『室内、床に映る陽光』は、よくみると左の端に白いテーブルクロスのかかったテーブルがちょっとだけ見えている。また、光の感じも微妙にちがう。
タイトルから判断すると、今回のテート美術館の『室内、床に映る陽光』のための習作が、「デーヴィズ・コレクション」の作品、ということだろうか。
さらに、「ハマスホイとデンマーク絵画」の図録(P172)には、もう一枚同じ室内を描いた同じような構図の作品が紹介されている。
それは、1900年に描かれたオアドロプゴー美術館(デンマーク、コペンハーゲンの北部にある美術館)の『陽光に舞う塵埃、ストランゲーゼ30番地』というものであり、その図版も載っている。
この時の解説によると、「この部屋を描いた作品は、今日、少なくとも15のヴァリエーションが知られている」とのことである。
なるほど、同じような構図で15枚もの絵が描かれていたのだ。
今回の「テート美術館展」では、ハマスホイの作品は上記の2点だけであったが、これだけでも相当に楽しめるものであった。
ハマスホイと万博
さて、なぜ、筆者が長々と「ハマスホイ」の話をしているのか、「万博亭日乗」の熱心な読者ならそろそろお気づきだろう。
そう、ハマスホイも万博に出展したことのある作家なのであった。
しかも銅メダルを獲得している。
2020年開催の「ハマスホイとデンマーク絵画」の図録の年表(P189)には、1889年のところに次のようにある。
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ハマスホイがパリ万国博覧会に4点の作品を出品し、銅メダルを獲得する。この時、パリを訪れていたハマスホイは6月15日の母フレゼレゲの誕生日に、完成したばかりのエッフェル塔の最上階に登ろうとするも、あまりの混雑に途中で諦めて引き返す。
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1889年パリ万博といえば、エッフェル塔ができたことで有名な、パリ万博としては、1855年、1867年、1878年に引き続き、第4回目となる万博である。
この万博はフランス革命100周年記念として開催され、3200万人以上の入場者数を誇った。
トピックスとしてはエッフェル塔が一番人気といえるだろうが、その他エジソンが電話と蓄音機を展示して、みずからデモンストレーションを行ったりした。
美術では、アンリ・ルソーが『私自身、肖像=風景』(1890 プラハ国立美術館)という作品で1889年パリ万博の風景を背景に自画像を描いたりした。その背景にはエッフェル塔も描かれている。
ハマスホイは万博に作品を出展したいわゆる「出展者」であったが、上記によればエッフェル塔への優先入場(?)はできなかった様子である。
ちなみに、1889年パリ万博時にエッフェル塔に上った記録がある有名人としては、英国皇太子エドワード、トーマス・エジソン、人気女優のサラ・ベルナールなどが挙げられる。
日本からも夏目漱石がエッフェル塔に上っているが、それはロンドンへの留学への旅の途中で立ち寄った1900年パリ万博の時のことであった。
さて、エッフェル塔はともかく、ハマスホイが出展したという「4点」というのはどんな作品なのだろうか。
残念ながら、図録解説にはそれ以上の情報は載っていない。
そこで筆者が万博亭に秘蔵する1889年パリ万博の美術展カタログ資料で調べてみることにする。
この資料は、国別の出展カタログになっていて、「DANEMARK(デンマーク)」のセクションには190点の絵画と17点の彫刻がリスト化されている。
そして、その「作品番号44〜47」がハマスホイの作品になっている。
それらの作品は、
44 “Etude”, 『勉強』 Study
45 “Vieille femme”, 『老婦人』 Old woman
46 “Jenne fill”, 『若い娘』 young girl
47 “Job” 『仕事』 Job
という4つの作品である。
しかし、残念ながら、2020年の「ハマスホイとデンマーク絵画」に出展された37点にも、今回の「テート美術館展」の2点にもこの4点は含まれてない。
ネット上には、もしかしたらこの作品かな、と思うものもあるが、例えば『老婦人』という同じタイトルで調べても、同じタイトルの絵が複数見つかってしまう。
筆者秘蔵の資料にはその作品の制作年までは書いていないので、これ以上の捜索はなかなか難しい。ご存じの方がいらっしゃったらぜひ聞いてみたいところである。
モネがその代表作である連作『睡蓮』のモチーフを「発見」したのと同じ1889年パリ万博で、デンマークのハマスホイが4点の作品を出展し、銅メダルを獲得していた。
一般の情報には、作家や作品と万博の関係は全くといっていいほど語られていないことが多い。
しかし、実は、万博の影響力は色々なところに広く及んでいる。
そんなことを再認識させられた展覧会であった。