「EBISU BAR STAND」
前回<95>でご紹介した、いわいとしお×東京都写真美術館「光と動きの100かいだてのいえ」展。
ゆっくり見終わって外に出ると、今年2024年は9月に入っても異常と思えるほどの暑さである。
ということで、東京都写真美術館を視察した筆者は、昼間からではあるがランチかつ暑気払いをかねてビールを飲むことにした。
せっかく恵比寿に来たのだからやはりエビスビールを飲みたいところである。
ということで、恵比寿ガーデンプレイスの入り口付近にある「EBISU BAR STAND」に寄ることにした。
こじんまりとした店ではあるが、さすがにビールは各種そろっている。
今回は「ヱビスマイスター」を飲むことにして、テーブルに備えられている電子パッドで注文する。
最近は多くの店でこの電子パッドでの注文方式が採用されている。
レストラン従業員の注文をとる時間は馬鹿にならない長さ(つまりコスト)であるらしく、人手不足の日本においては理にかなったシステムといえよう。
客サイドも慣れてしまえば注文の誤りもなくなって便利である。
さて、注文を終えてさっそくビールを飲んでいたところ、テーブル上の電子パッドに気になる情報が次々と自動的に現れる。
つい見入ってしまう。
恵比寿ビールの歴史
まずは、恵比寿ビール誕生の画像と解説である。
文章には次のようにある。
恵比寿ビール誕生
今から遡ること130年以上前の明治時代。
中小資本家が集まり、日本一のビール会社を目指すという壮大な理想を掲げ、現在の東京恵比寿の地で恵比寿ビールの醸造がはじまりました。
本場ドイツから醸造設備を輸入、技術者もドイツから招き、日本でいち早く本格的なビールを作り始めたヱビス。
「恵比寿黒ビール」発売
まだ日本はビール黎明期でしたが、恵比寿ビールを発売からわず大1年後、「黒ビール」を発売。早くからビールの多様な味わいに挑戦しました。
なるほど、恵比寿ビール誕生は1890年、1900年パリ万博や1893年シカゴ万博の前ということになる。
そして、次の画像は次のようなものである。
日本初のビヤホール
今でこそビヤホールはあちこちにありますが、実は日本で初めてのビヤホールは「恵比寿ビヤホール」でした。
「ビールは500mlジョッキ1杯10銭で販売」とある。
今にすればいくらくらいなのだろうか。
ネット情報によると明治30年(1887年)の1円が今の3800円くらいということなので、10銭は380円くらい、ということになろう。
まあそうかな、というレベルである。
さて、次の画像が、「やっぱりきたか!」という感じのものであった。
恵比寿ビールと万博
パリ万博で金賞を受賞
1900年には恵比寿ビールがパリ万国博覧会で金賞を獲得。30カ国以上から出品された中での受賞は、当時、日本のビールが世界に認められるという画期的な出来事でした。
その後1904年には、米国セントルイス万博でグランプリを受賞。本物の味わいにこだわる「恵比寿ビール」は、100年以上も前から世界に認められていました。
そう、恵比寿ビールも「万博銘柄」だったのである。
アルコール製品と万博
万博ではアルコール製品も数々受賞してきた歴史があった。
はやくも1867年の2回目パリ万博では、ドイツのビールが大流行したという記録が残っている。
日本と関連するところでは、1889年のパリ万博で「白鹿」の11代辰馬吉左衛門が、日本酒でメダルを受賞している。
また、1904年の米国セントルイス万博では、ウィスキー部門に、「リンチバーグ」という、当時ほとんど無名のウィスキー・メーカーが出展し、金メダルを獲得した。
このメーカーこそが、現在テネシー・ウィスキーのメーカーとして世界的に有名な「ジャック・ダニエル」(”JACK DANIEL’S”)である。
「ジャック・ダニエル」のホームページには次のようにある。
ミズーリ州セントルイスで開催された万国博覧会で、オールド No.7が金賞を受賞する。 これはオールド No.7に授与された7つの金賞のうちの最初のものである。
さらに見ていくと、次のようにある。
事前の話題にはほとんど上らないまま、ジャック・ダニエル氏とオールドNo.7ウイスキーは、大会出展のためセントルイスに到着しました。テネシー州リンチバーグから遅れてやってきたジャックの荷台には、四角い瓶のウイスキーが積まれており、誰もそれをどう評価すればいいのか理解に苦しみました。観覧車のデモンストレーション、ヘレン・ケラーの登場、ホットドッグのデビューなど、当時注目を集めるのは決して簡単なことではありませんでした。 特に、誰も聞いたことのないような町からやってきた身長158cmの蒸溜酒製造者にとっては。
しかし、ジャックは群衆の中で目立つコツを知っていました。審査員や好奇心旺盛なフェア参加者がジャックのウイスキーを試飲すると、皆の視線は彼に釘付けになりました。大胆な帽子の男と炭でろ過されまろやかに仕上げたウイスキーは、世界中から選ばれた24のウイスキーの中でも際立っており、世界最高のウイスキーとして金賞を獲得したのです。ジャックはその場でテネシー・ウイスキーの需要が高まることを察し、その対応のためフェアに出かけてから5日も経たないうちに、再び故郷に戻りました。
また、筆者が主に1980年代に愛飲していた「I.W.HARPER」もじつは万博関連銘柄であるが、それについては次回<97>にて紹介しよう。
「恵比寿駅」の歴史
さて、EBISU BAR STANDの最後の4枚目の画像は下記のようなものである。
駅の名、そして町の名へ
「恵比寿ビール」出荷専門の貨物駅が新設され、ブランド名をとって「恵比寿停車場」に。その後も恵比寿ブランドの名前が、旅客駅や町の名前へと使われていきました。
駅や町の名前になったことは、ヱビスが多くの人々に愛されてきた証かもしれません。
写真下のキャプションには次のようにある。
その後、1906年(明治39年)には旅客駅「恵比寿駅」が誕生
筆者も1980年代は恵比寿に住んでいたこともあり思い出深い街であるが、恵比寿駅の歴史までは思いを馳せることはなかった。
約40年後の今になってようやく、恵比寿駅が誕生したのは1906年、ということを知るのであった。