<99>服部金太郎も受賞した1902-03年ハノイ万博

1902-03 Hanoi
「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」表紙

1902-03年ハノイ万博

前回<98>でご紹介したセイコーミュージアム銀座
そこには、1902-03年にベトナム・ハノイで開催されたハノイ万博でセイコー(当時の精工舎)が金牌を受賞した、という展示・紹介がされていた。

セイコーミュージアム銀座 展示風景
「佛領河内博覧会金牌受領」とある。
photo©️Kyushima Nobuaki

ところでこのハノイ万博、というのは通常の万博史ではあまり取り上げられないものであるが、どんな万博だったのだろうか。

John. E. Findiling氏著作からみるハノイ万博のデータ

筆者が所蔵する”Historical Dictionary of World’s Fairs and Expositions, 1851-1988”というJohn. E. Findiling氏の著作には、巻末に各万博の基礎データが載っている。

このハノイ万博であるが、この巻末には一応記述がある。
それによると、1902年11月16日〜1903年2月15日までの約3ヶ月間開催されたということである。
会場面積は41エーカー。つまり、16.6ヘクタールということになる。
ここまでの情報は得られたが、他の万博では記述のある入場者数、万博が出した利益(損失)については記述がなく空白になっている。
公式記録にも入場者数は記述されていないようだ。

やはりあまり研究資料がないようだ。
上記資料の記述部分を読んでいくと、概要は次のようになる。

ベトナムは当時フランスの植民地であった。
フランスは19世紀後半5つの大きなパリ万博を実施し、19世紀最後のパリ万博は1900年に開催された。

19世紀も終わりの頃になると、欧米諸国は世界に植民地を持つようになり、欧米開催の万博(もちろんパリ万博も含めて)でも植民地の物産、文化等を紹介するようになった。

そして植民地現地でも産業振興、貿易振興のために万博を企画し始めたのである。
その一つがこのハノイ万博(”HANOI 1902-1903 Exposition Français et Internationale”)であった。
この万博にはフィリピン、マレーシア、シャム、日本、台湾(1984-85年の日清戦争により日本の領土となっていた)、中国、朝鮮の専用パビリオンが設けられた。
入場料は無料だったにもかかわらず、開幕日から入場者は低調を極めたという。

「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」

国会図書館にはこの万博の日本出展に関する報告書がある。
その名も「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」というものである。
ハノイ万博は、日本の公式文書では「仏領東京河内府東洋農工技術博覧会」と呼ばれていたらしい。

「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」表紙

日本は日本政府の公式出展ではなく、「日本貿易協会」という今のJETROの前身の一つであった団体がとりまとめて出展するという形であったらしい。
上記報告書も出版者は「日本貿易協会」となっている。

さて、この報告書はPDFになったものがネットで公開されている。
この報告書には受賞者のリストがついている。

服部金太郎の受賞

これによると「第20類」のP166のところに

金碑 東京 服部金太郎

との記述があり、会社としてというよりは「服部金太郎」として金牌(資料では「金碑」と記述されている)を受賞したことがわかる。

「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」出展者リスト 第20類に「掛時計 東京 服部金太郎」の名前がある。(右ページ上段)

「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」右ページ上段に「 同(金牌) 東京 服部金太郎」の記述がある。

また、P133には売上金一覧表というものがあり、「総売上合計14,148圓88銭」とあり、その中で
「服部金太郎 280.270」とある。総合計が1.4万円だったことを考えると、単位は圓で、280円27銭ということだろう。

「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」の「売上金一覧表」に「服部金太郎」の記述がある。(左ページ上段)

また、受賞者リストに戻って確認してみるといくつか興味深い社名をみとめることができる。

日本のビール各社の受賞

それはP156に記載されている「第11類」である。
ここには次のような記述がある。

金碑 東京 日本麦酒株式会社
同  大阪 大阪麦酒株式会社
同  大阪 鳥井合資会社
銀碑 東京 札幌麦酒株式会社 東京出張所

「一九〇二年仏領東京河内府東洋農工技術博覧会報告書」受賞者リストにビール各社の名前が認められる。
(右ページ下段 第11類)

この「日本麦酒株式会社」「恵比寿麦酒」を製造していた。その後いろいろと合併や分裂の歴史を経たが、現在のサッポロビールの前身である。
「大阪麦酒株式会社」アサヒビールの前身で1889年11月に設立されている。
「鳥井合資会社」はサントリーではないかと考えるが、サントリーの歴史の中には「鳥井商店」はでてくるが「鳥井合資会社」という名前ではない。
当時大阪麦酒株式会社の社長も鳥井駒吉という「鳥井」という人物であり、まぎらわしい。
これはさらなる確認が必要である。

札幌麦酒株式会社についてはサッポロビールのホームページに次のようにある。

1887年 札幌麦酒会社の設立
道庁から札幌麦酒醸造場の払下げを受けたのが大倉喜八郎でした。大倉は二度の洋行で西欧のビール事業を実見した経験がありました。1886(明治19)年11月、官営ビール事業は民営化され「大倉組札幌麦酒醸造場」として新たなスタートをきりました。
しかし翌年、大倉は醸造場を政財界に多大な影響力を持つ渋沢栄一、浅野総一郎らに事業を譲渡してしまいます。大倉はビール事業をより確実なものにしたいと考えたようです。1887年12月、大倉自らも経営に参画し、新会社「札幌麦酒会社」が設立。渋沢らの加入により、大きく飛躍する基礎が確立したといえます。

ここにも大倉喜八郎渋沢栄一という人物がかかわっていたのだ。

渋沢栄一

また、<96>でご紹介したように恵比寿ビールは1900年パリ万博で金賞を受賞、1904年セントルイス万博ではグランプリを受賞している。

YEBISU BAR STANDの注文パッド上の情報
「1900年パリ万博で金賞を受賞」
「1904年セントルイス万博でグランプリを受賞」
photo©️Kyushima Nobuaki

この恵比寿ビールを製造販売しているのも現在はサッポロビールだが、当時はその前身の日本麦酒株式会社が製造していた。

このように、1902-03年ハノイ万博では、今も存続しているビール各社も受賞をしたことがわかる。
セイコーミュージアム銀座の精工舎の時計から各社のビールへと、万博の歴史をめぐる旅はベトナム・ハノイにまで広がっていくのであった。

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