<34>ピカソ『アヴィニョンの娘たち』は万博に出展されていた!?

1937 Paris
『アヴィニョンの娘たち』(MoMAにて筆者撮影。2019年) "Les Demoiselles d'Avignon" (Photo taken by the author at MoMA in 2019)

パブロ・ピカソの『アヴィニョンの娘たち』

さて、<32>「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展①で軽く触れたパブロ・ピカソ(1881-1973)の『アヴィニョンの娘たち』(243.9×233.7cm、1907年作、ニューヨーク近代美術館所蔵)。

キュビスムの始まりとなったともいわれる、ピカソの作品の中でももっとも重要な作品の一つとみなされている作品であり、かつ、もっとも有名な作品の一つである。

高階秀爾氏の『続 名画を見る眼』でもピカソの作品として、10万点以上ものピカソの作品の中から、この『アヴィニョンの娘たち』がとりあげられている。

それだけ重要な意味をもつ作品ということだろう。

アーティゾン美術館で開催中のABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展では、ピカソの『女の胸像(フェルナンド・オリヴィエ)』(1909年 “Bust of Woman (Fernande Olivier)、個人蔵)が展示されており、そこから、<32>では、そのフェルナンド・オリヴィエがモデルの一人であるといわれる『アヴィニョンの娘たち』に言及した。

しかし、『アヴィニョンの娘たち』について、いろいろな書物や、現在この作品を所蔵しているニューヨーク近代美術館(MoMA等のネット上の情報を調べてもこの作品が万博に出展された、という話は見たことがなかった。

『アヴィニョンの娘たち』(MoMAにて筆者撮影。2019年)
“Les Demoiselles d’Avignon” (Photo taken by the author at MoMA in 2019)

ピカソと万博の接点

さて、それでは、そもそもピカソは万博とどう関係していただろうか。

ピカソと万博、といえば、1937年パリ万博スペイン共和国パビリオンのために制作した『ゲルニカ』が有名であろう。

1900年パリ万博に『臨終』を出展

だが、ピカソと万博の最初の接点は1900年パリ万博だった。

ピカソはスペイン・マラガで1881年に生まれた。
父親だったホセは、画家を志していたがあきらめ、美術教師をしていた。
彼はピカソに英才教育をほどこす。

そして、ピカソは1895年、バルセロナに移り、サンジョルディ・カタルニア王立美術学校に14歳という異例の若さで入学した。この学校は当時スペインで随一と言われた名門校であった。

ここでピカソは古典芸術の基礎を学んだ。相当優秀だったらしく、飛び級で上級コースへ進む。

この頃の作品に『科学と慈愛』(1897)がある。
ピカソ16歳の時の作品で、この作品は数々の賞を獲得し、高い評価を受けた。
この作品の中に登場する「医師」は父のホセがモデルをつとめたという。

しかし、この頃すでに、ピカソは父ホセの伝統芸術の方向性に反発していたらしい。

バルセロナの「4匹の猫」(Els Quatre Gats)というカフェでさまざまな芸術家と知り合い、新しい芸術運動であったモダルニズマ(カタルーニャ語。英語では「モダニズム」。フランスのアール・ヌーヴォーと類似した芸術様式)に触れていたピカソは、父ホセの求める伝統芸術には反発するようになり、次第に父親との葛藤を抱えるようになったという。

その頃、父に言われて描いたのが『臨終』という作品だった。

この作品は1900年パリ万博に出品された作品である。

この作品は(後で述べるように)現存していないが、そのためのスケッチは見ることができる。
これも『科学と慈愛』と同じような伝統的絵画といったテーストである。
ということは、父親の強い意向が反映されていたことが想像される。

この『臨終』を描くことを条件に、父の許しを得て、1900年10月、ピカソは親友のカサヘマスとともにパリに向かうことになる。
ちなみに、パリ万博での『臨終』の評価は散々だったという。

『臨終』の現在

ピカソとカサヘマスはパリ到着後、芸術家が集まるモンマルトルの丘の中腹の屋根裏のアパートを借りて住むことになった。

このころ描かれたピカソの万博関連の作品としては、『パリ万国博覧会の出口で(1900)」というものがある。

これは、モノクロのスケッチのような作品である。

画面には、4人の男性と2人の女性が歩いている(ぶらついている)ところが描かれている。
手前には2匹の犬が見える。
人物たちの後ろに見えるのは1900年パリ万博時に建てられた「ビネ門」だろう。

1900年パリ万博「ビネ門」
Porte Bine, 1900 Paris Exposition

ピカソ(左から二人目)とカサヘマス(右から二人目)とともに、モデルとして誘ったアトリエ近くに住む女性二人が描かれている。

画面右端でカサヘマスに腕を絡める女性がジェルメーヌである。

ジェルメーヌ、ジェルメーヌの妹、その友人の三人は、ピカソとカサヘマスのモデルをつとめていた。

その3人が描かれているとされるのが、ピカソがパリに来て始めた描いた油絵作品である『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1900)である。

画面一番左手前の妖艶な女性がジェルメーヌといわれている。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』というとルノワールの作品(1876年作、オルセー美術館蔵)を思い出してしまう人が多いと思うが、ピカソも同じタイトルの絵を描いていた。

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』
Pierre Auguste Renoir “Le Moulin de la Galette”

ピカソの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は、ルノワールというよりはむしろロートレックの影響を感じさせる。

しかし、親友カサヘマスはこのジェルメーヌのために自殺してしまう。

1901年のことだった。

実はピカソはカサヘマスをジェルメーヌから引き離すために、二人でピカソの故郷のマラガにカサヘマスを連れてきていた。

しかし、カサヘマスは、ピカソがマドリッドでの展覧会のために不在の隙にパリに戻ってきて、ジェルメーヌを拳銃で撃ち(弾は外れて彼女は無事だった)、その後自分の右のこめかみに銃弾を打ち込んで死んでしまった。

ジェルメーヌの本名はフロロンタン(旧姓ガルガロ)といい、彼女はじつはすでに結婚していて夫がいた。このことはカサヘマスの死後明らかになったのである。

そして、カサヘマスの死の悲しみから、ピカソの「青の時代」は始まる。
ピカソは「カサヘマスの死を考えながら僕は青の画家になった」と言っていたらしい。
そして、「青の時代」の最高傑作が『人生』(”La Vie”(1903、クリーブランド美術館蔵)といわれている。

実は、1978年、『人生』がX線調査され、新たな事実が見つかった。

この『人生』が描かれているキャンバスは、ピカソが1900年パリ万博のために制作して出品したあの『臨終』が描かれたものだったというのだ。

ということは、この1900年パリ万博に出品された『臨終』(のキャンバス)は現在、『人生』が所蔵されている米国オハイオ州クリーブランドのクリーブランド美術館(The Cleveland Museum of Artにある、ということになる。

ピカソは、父親から言われて仕方なく描いた伝統的手法にもとづく作品『臨終』を塗りつぶして、みずからの「青の時代」の最高傑作をその上に描いたのである。

1937年パリ万博とピカソ

そして、万博とピカソの関係として、その後認められるのが、1937年パリ万博の時の「スペイン共和国パビリオン」のために制作された『ゲルニカ』である。

この『ゲルニカ』については、拙著『万博100の物語』(2022年、ヨシモトブックス)で詳しくご紹介したので是非そちらをご参照いただきたい。

しかし、この『ゲルニカ』のほかにもピカソはこの1937年パリ万博に作品を出展していたのであった。

そのことは、<26>現在開催中の「マティス展」とマティスの万博出展作品でご紹介した「独立美術の巨匠たち1895-1937展」のカタログからわかる。

「独立美術の巨匠たち1895-1937展」カタログ
Catalog of “Les Maitres de l’Art INDÉPENDANT 1895-1937”

このカタログには、マティスの他にも多くの我々の知る画家が登場している。

つまり、我々の知る多くの画家が1937年パリ万博に参画した、ということになる。

たとえば、、、

アンリ・ルソー、シニャック、ヴラマンク、ドラン、ルオー、マリー・ローランサン、ヴァン・ドンゲン、ヴァロットン、モーリス・ドニ、エミール・ベルナール、ヴュイヤール、ボナール、デュフィ、ロダン、ピカビア、デ・キリコ、スーティン、モディリアーニ、シャガール、ユトリロ、ブラック、レジェなどである。

「独立美術の巨匠たち1895-1937展」(「巨匠展」)カタログの中に『アヴィニョンの娘たち』を発見!

そして、ピカソはこの「独立美術の巨匠たち1895-1937展」(「巨匠展」)32の作品を出展している。

「独立美術の巨匠たち1895-1937展」カタログ P106-107
Catalog of “Les Maitres de l’Art INDÉPENDANT 1895-1937”, P106-107

そして、筆者が、その32点のリストをチェックしていたところ、その9番目に

Les Demoiselles d’Avignon』(『アヴィニョンの娘たち』)

を「発見」したのである。

上述したように、ピカソ『アヴィニョンの娘たち』について、いろいろな資料からは万博と関連づけられた記述はみつけることができない。

しかし、「巨匠展」カタログ、という万博の公式な印刷物には、ちゃんと

『Les Demoiselles d’Avignon』(『アヴィニョンの娘たち』)

と記述してあるのだ。

9. Les Demoiselles d’Avignon(アヴィニョンの娘たち)とある。
“Les Demoiselles d’Avignon” can be found at No.9

調べたところ、同じタイトルの絵が他にある、という事実も認められない。

果たして、『アヴィニョンの娘たち』は、本当に1937年パリ万博の『巨匠展』に出展されたのだろうか?

『アヴィニョンの娘たち』が制作されてからニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されるまで

そもそもこの『アヴィニョンの娘たち』は1907に、パリのモンマルトルの「洗濯船」《Bateau-Lavoir》と呼ばれた集合アトリエ兼住宅の中で制作された。

しかし、ピカソは作品完成後何年も、この作品を自分のアトリエに保管しており、一般に公開はしていなかった。周囲の反応も否定的なものが多かったらしい。

その後、1916になってやっと「サロン・ドートンヌ」で展示されたのである。

これが、はじめてこの作品が公になったとき、ということになる。

この時の展示スペースは、あのポール・ポワレ(1879-1944)によって提供されたという。

ポール・ポワレは、<19> マリー・ローランサンとモード」展でご紹介したとおり、当時「ファッション界の帝王」と呼ばれた人物で、マリー・ローランサンの親しい友人(恋人)であったニコル・グルーの兄だった人物である。ポール・ポワレには三人の妹がいて、その一番下の妹が、ニコル・グルーだった。

ただし、『アヴィニョンの娘たち』の「写真」は1910に、”The Architectural Record”(『建築記録』)の”The Wild Men of Paris, Matisse, Picasso and Les Fauves”(『パリの野生人、マティス、ピカソ、そしてフォーヴ』)というGelett Burgess(ゲレット・バージェス)による記事の中で出版され、一般に公開されていた。

ネット上に公開されている情報その他によると、その後は以下のような経緯をたどることになる。

1916年の次にこの絵が一般公開されたのは、1918にパリのポール・ギョーム美術館でピカソとマティスを特集した展覧会であった。しかし、この展覧会や絵画に関する情報はほとんど存在しない。

その後、この絵は丸めた状態でピカソの手元に残り、1924にデザイナーのジャック・ドゥーセ(Jacques Doucet 1853 – 1929)に25,000フランで売却された。

ドゥーセとピカソの間では、話がついた日の翌月から、合計が25,000フランに達するまで、ピカソは毎月2,000フランを受け取ることになる、ということであった。(結局、ドゥーセは合意価格以上の3万フランを支払った。)

ジャック・ドゥーセは1929年に死去し、『アヴィニョンの娘たち』はドゥーセ夫人が所有することになった。

そして、1937 年のパリ万国博覧会が閉幕する約 1 か月前の 1937 9 15 、この絵はジャック・ドゥーセ夫人によってジャック・セリグマン& カンパニーに 150,000 フランで売却された。

その後、1937 年 11 月、ニューヨーク市のジャック・セリグマン & カンパニー・アート・ギャラリーは、『アヴィニョンの娘たち』を含む「ピカソの進化の 20年、1903 ~ 1923 年」と題した展覧会を開催した。

同年、MoMAが『アヴィニョンの娘たち』を購入。取引は1939年に終了した。

MoMAは、1939 年 11 月 15 日から40年3月3日まで「ピカソ: 彼の芸術の 40 年」という重要なピカソ展を開催した。この展覧会は、MoMAの初代館長に27歳という若さでで就任したアルフレッド H. バール Jr.Alfred H. Barr Jr. 1902–1981)によって企画された。

この展覧会には、1937 年の主要な絵画『ゲルニカ』とその習作、『アヴィニョンの娘たち』を含む 344 点の作品が展示された。

MoMAのホームページでもこの作品の履歴をダブルチェックしてみよう。MoMAの『アヴィニョンの娘たち』のページには次のようにある。

This work is included in the Provenance Research Project, which investigates the ownership history of works in MoMA’s collection.
(この作品は、MoMA のコレクションにある作品の所有履歴を調査する来歴調査プロジェクトに含まれています。)

そして来歴が次のように記述されている。

The artist, Paris. 1907 – 1924
Jacques Doucet (1853-1929), Neuilly (Paris). Purchased from Picasso in February 1924 – 1929
Madame Jacques Doucet (Jeanne Roger), Neuilly. 1929 – September 1937
Jacques Seligmann & Co., New York. Purchased from Madame Doucet in September 1937
The Museum of Modern Art, New York. Purchased from Seligmann, through the Lillie P. Bliss Bequest, in 1937. Transaction completed in 1939

これはMoMAによってまとめられたこの作品の所有の履歴である。要約すると

1907-1924 ピカソ(作者)
1924-1929 ジャック・ドゥーセがピカソより購入
1929-1937 ジャック・ドゥーセ夫人が相続
1937        ジャック・セリグマン&カンパニーがドゥーセ夫人より購入。
1937     MoMAがリリー・P・ブリスの遺贈によりセリグマンから購入。
1939             取引終了

上記では、「1937 年のパリ万国博覧会が閉幕する約 1 か月前の 1937 年 9 月 15 日、この絵はジャック ドゥーセ (1929 年に死去)の未亡人によってジャック・セリグマン・ギャラリーに 150,000 フランで売却された。」とあり、1937年パリ万博のことには言及されているが、この万博にこの作品が出品されたかどうかの明確な記述はない。

1937年パリ万博の「巨匠展」(6月から10月まで開催)に『アヴィニョンの娘たち』は展示されており、展示された状態のまま取引が成立した可能性もある。

このように、時系列をたどっていくと、1937年パリ万博の「巨匠展」に『アヴィニョンの娘たち』が出展されたとしても矛盾はない。

いずれにしても、「巨匠展」のカタログに作品名が載っており、他の事実と時系列的な矛盾がない。また、反証の事実も今のところはない。

ということは、『アヴィニョンの娘たち』もまた万博出展作品であった、というのが一応の結論、といってもいいのではないだろうか。

タイトルとURLをコピーしました