『内田祥三先生作品集』を発見!
<40>話でご紹介した内田祥三(うちだ よしかず、1885-1972)。
彼は、1923年関東大震災の後、その耐震・耐火建築研究の成果をもって、今も残る東京大学キャンパス内(本郷、駒場)の多くの建物を設計し、その後東大総長もつとめた人物である。
また、彼は、1939/40年ニューヨーク万博、また、同じ年に開催された1939/40年サンフランシスコ万博の日本館の設計も手掛けている「万博関連人物」でもあった。
実は、ネット書店等で調べてみても、内田祥三に関する書籍はほとんど見つからない。
何かいい資料はないかと思っていたところ、「旧公衆衛生院」(現・「港区立郷土歴史館」)を視察していた時に、非常に重要かつ有用な資料にたどり着いた。
それは
『内田祥三先生作品集』(以下『作品集』)
という分厚い立派な大型本である。
これは、内田祥三の教え子の皆さんが「内田祥三先生眉寿祝賀記念作品集刊行会」というものを組織して発行されたものであり、非売品である。
発行日は昭和44年(1969年)11月30日である。
発行日が1969年なので、内田の没する3年間前である。
P.9の「序」には次のようにある。
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平素
とくに親しい方々から
かねがねつくっておきたいと念願していました
小生の建築作品集につき
編集から出版まですっかり面倒をみておもらいして
まことに立派なものができ
どっさり
ここに寄贈にあずかりました
有難く頂戴します
会員の皆様に心から感謝の辞を
述べます
内田祥三
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内田祥三本人が「序」を書いているということは、この『作品集』には内田の作品がもれなく含まれていると思ってよさそうである。
一般に内田の最後の作品と言われているものは東京・新宿にたつ「安田火災海上本社ビル」(現・損保ジャパン本社ビル)である。このビルの竣工は1976年であるから、内田の没後に竣工したものである。
この「安田火災海上本社ビル」はさすがにこの『作品集』には含まれていないが、それ以前のものは全て含まれているとみていいだろう。
この『作品集』をみると、筆者が知らなかった建物もその多くが内田祥三の設計であったことがわかる。
不肖筆者が東大キャンパスで過ごさせていただいた学生時代はすでに40年以上前になるが、今になって、万博の研究から内田祥三に辿り着き、自分の知らずに過ごしていた施設がそのような万博関連の人物の設計であったと知ることになる。人生は不思議だ。
当時はインターネットもなく、なかなか気軽に設計者のことを調べることもできなかった。
今は、多くのことがインターネットで調べられる。
ということで今更ながらの新しい発見も多い。
個人的な思い出や経験も含まれるが、不思議な縁を感じる。
東大は大きく分けて「本郷キャンパス」と「駒場キャンパス」に分かれている。
もちろん、そのほかにもいろいろなキャンパスをもつ。
しかし、筆者が過ごしたということもあり、「本郷キャンパス」と「駒場キャンパス」についてご紹介したい。
東大本郷キャンパス
今回はまずは本郷キャンパスである。
じつは本郷キャンパス内の多くの建物は内田祥三が関わっているが、下記、個人的な関心も含めていくつか代表的なものをご紹介したい。
1925年(大正14年)竣工「東大大講堂」(通称:「安田講堂」)
本郷キャンパスで内田祥三設計でまず取り上げられるのが、「安田講堂」(作品集のなかの名称は「東大大講堂」)であろう。1925年(大正14年)の竣工である。
1923年に関東大震災が発生し、そのため、東大キャンパスの多くの建物は壊滅した。
そしてそのあと新しい校舎が建てられていく。
つまり、震災発生から2年で竣工したわけなので、相当早い方である。
資料によると、1924年には「東大工学部二号館」が、1925年にはこの「東大大講堂」(安田講堂)が竣工しているので、東大キャンパスの中では、震災後2番目の速さで建てられたことになる。
しかし、それにしてもあまりにも早い。
やはり、調べていくと、この「東大大講堂」は震災前から計画されていたものであった。
当時東大の卒業式には天皇が行幸されたが、その便殿も正式なものはなかったということを聞いた安田善次郎氏が、それは恐れ多い、ということで100万円の寄付をされた、ということだ。
当時「東大工学部二号館」を手がけていた内田の成果がみとめられて、震災1年前の1922年に内田は「大講堂建築実行部建築部長」を嘱託されたのである。(ということはまた、1924年竣工の「東大工学部二号館」も震災前から計画されていたもの、ということになる)
着工は震災前年の1922年12月25日であり、竣工は1925年6月30日である。
途中で、関東大震災が発生。当時の構造計算は震災前のものだったので、この地震の経験をもとにしてもっと丈夫なものにしたいと内田は考え、安田財閥に寄付の増額を交渉し、20万円の追加寄付を引き出したりしている。
1928年(昭和3年)竣工「東大図書館」
つぎに、内田祥三の代表的な作品とされているのが「東大図書館」である。
その、本郷の総合図書館の入り口前にある解説によると、次のようにある。
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総合図書館は昭和3年(1928年)に内田祥三工学部教授(後に総長)の設計により建設されました。
旧図書館は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災によって全焼し、70万冊の蔵書も失いました。蔵書には東京大学の前身である東京開成学校、医学校や旧幕時代の学校から受け継いだ
貴重な資料が含まれていました。
総合図書館の再建には、ジョン・ロックフェラーJr.氏より400万円の寄付が寄せられました。この額は今日の価値に換算すると、100億円と見積もられます。また、蔵書の復興にあたっては、国際連盟においても図書復興援助の決議が採択され、国内外から数多くの図書の寄贈を受けました。
その後の大規模改修においてもロックフェラー財団の支援を受け、今日に至っています。(太字は筆者による、以下同様)
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ロックフェラーといえば、<40> でもご紹介した「旧公衆衛生院」にも財団から日本政府へ350余万ドルを寄付している。
在学中はもちろん、今に至るまで、ロックフェラーが東大にこんなに寄付してくれていたなどとは全然知らなかった。
単純にありがたい申し出だと思うが、実はこのロックフェラーからの寄付を受けるかどうかについてもいろいろと議論があったらしい。
『作品集』には次のようにある。
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震災の直後からロックフェラー氏が東大に図書館を寄付しようとしているという話は,先生(筆者注:内田祥三先生のこと)からすると噂程度にはあった。しかし具体化したのは,大講堂(筆者注:安田講堂のこと)が竣工して後からである。初代図書館長になられた姉崎正治先生ならびに二代目の図書館長になられた高柳賢三教授がロックフェラー氏と種種交渉されたようである。だが外国人からの援助を潔しとしない意見も学内にあった。
だがロックフェラー氏の寄付申し込みの書簡は,きわめて謙虚なものであったと先生は回想される。“日本はもちろん独力で東大の図書館を立派に復興されるだろう。私は信じて疑わない。しかしもしその中に自分のポケット・マネーの一部を加えることを許されるならば,たいへん光栄であり,かつありがたい”という意味のもので,これによって反対者の気持も和らぎ、実現に至った、ということである。財団ではなく氏個人のお金であったらしい。
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というわけで、ロックフェラーの寄付により、この図書館は完成した。
「書棚に本が並んだような正面ファサード」は大変好評だったという。なるほど、今まで40年以上もそう思ったことはなかったが、言われてみると、「書棚に本が並んだよう」に見えてくるから不思議だ。
図書館内部には、あの新海竹蔵のレリーフなどもあり、さすが東大の図書館という雰囲気をかもしだしている。学生時代にもっと活用しておくべきだった、と今更ながらもったいなく思う。
1933年(昭和8年)竣工「東大運動施設附属建物」
図書館と異なり、こちらの施設は結構利用させてもらった。思い出も多い。
これは、いわゆる「御殿下グラウンド」といわれるグラウンドの下面に位置するグランドの北縁と病院に面する東の一部を限っている鉄筋コンクリート造半地下平家建ての「建物」である。
「この建物には,辰野金吾先生設計のもとの工学部本館の一部が内田先生の手によって移され,使用されている。」とのことである。
辰野金吾(1854-1919)といえば、日本銀行本館、東京駅丸の内駅舎などを設計した明治〜大正時代に活躍した著名な建築家である。
次に述べる「東大工学部一号館」の場所にはもともと帝国大学時代の工学部本館があった。これは辰野の設計で明治21年(1888年)に竣工していたものだ。
1935年(昭和10年)竣工 「工学部一号館」
『作品集』には次のようにある。
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工学部一号館は向って左半分が土木、右に建築が入っている。われわれ(筆者注:内田祥三の門下生たち)にとって想い出の多い建物である。鉄骨鉄筋のコンクリート構造,地下室付3階建て,一部4階。昭和4年5月着工,同10年8月竣工。
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前述したように、この場所には帝国大学時代の工学部本館があった。『作品集』によると
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辰野金吾先生の設計で,明治21年に竣工した赤煉瓦の名建築である。内田先生はこの建物を惜しまれて,その一部柱型や柱頭などを運動場施設建物の一部に転用された。
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とのことである。
また、これに伴い、銀杏の樹の移設が行われていた。
ふたたび『作品集』をみてみよう。
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この旧建築の中庭に茂っていたのが現在(工学部)一号館前にある大銀杏である。おそらく東大キャンパス内でもっとも大きく、堂々たる名樹である。うっそうとしたその緑蔭は読書にふける,あるいは運動に疲れて一汗いれる学生たちの憩いの場である。
この木は先生のお話しによると3年がかりで慎重に現在地へ移されたものである。すなわち最初の年の春さきに半分の根回しをし、翌年さらに残りの半分の根回しをして、根をすっかりむしろで包んで土中におき、次の年に移したものである。“非常にていねいな方法です。あれはいい木ですからね。いまになると,それだけ手数をかけただけの甲斐はありますね”ということである。
この一号館の前庭には日本建築界の恩人ジョサイア・コンドル博士の銅像が立っている。明治10年工学部大学校造家学料の教師として若冠25歳で来日され、大正9年東京で亡くなられるまで、教育に実務に抜群の貢献をされた方である。銅像は大正12年4月除幕をされたもの。作者は新海竹太郎氏。
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ジョサイア・コンドル(1852-1920)といえばイギリスの建築家で、1877年に来日し、日本に西洋建築学を伝えた。辰野金吾も教え子だった。コンドル本人の作としては、上野博物館や鹿鳴館、ニコライ堂、三菱1号館などがある。
また、新海竹太郎(1868-1927)は以前ご紹介した新海竹蔵(1897-1968)の伯父にあたり、1900年パリ万国博覧会を機に渡欧した人物である。
1938年(昭和13年)竣工 東大学生会館 (二食)
筆者が学生時代、「二食」(第二食堂)といわれたこのビル(竣工当時は「東大学生会館」、現在は「東大生協」)の2階には財団法人東京大学運動会総務部の部室があった。これは普通の大学では「体育会」と呼ばれる組織である。
なぜか東大では「運動会」という名称が歴史的に使われている。
運動会総務部員だった筆者が毎日のように通った場所である。
あの頃は、こんな重要な文化財とも知らず、ありがたがることも知らずにふつうにこの建物の中で過ごしていた。
思い出は多い。
ちなみに、この建物の地下一階には「東大室内プール」が1936年(昭和11年)に設置されている。「二食」のビルができあがる2年前である。まず地下から作ったのだろう。
当時「二食の地下で泳いだ」という話は聞いたことがなかったが、今はどうなっているのだろうか。
『作品集』にはつぎのようにある。
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この室内プールはもと第二食堂,現在学生会館とよばれている建物の地下にある。
13m幅、25mの正式のプールで、昭和10年3月着工、翌11年4月竣工。
先生のお話しによると”日本で最初にオリンピックの水泳に参加してメダルをとった人”が,冬期の練習プールがないので工学部機械教室の貯水池を使っていた。蒸汽が吹きこむので温かかったためだろう。それを見られて,大学にも正規のプールをということで作られたものである。一高でも本郷でも先生は予算のない運動場を,敷地を整備したらできちゃった,という具合に強引にやられた。このプールもさしずめ地下の貯水槽とでもおっしゃったのだろう。
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1938年(昭和13年)竣工 「東大柔剣道場」(「七徳堂」)
そして、さらに、この「七徳堂」も内田祥三先生の作品であった。
筆者が学生時代はすでに「東大柔剣道場」ではなく「七徳堂」と呼ばれていて、柔道部、剣道部以外に、合気道部や、筆者が所属していた少林寺拳法部も使わせていただいていた。
御殿下グラウンドに面した方には各部の部室もあり、他部のことはわからないが、少林寺拳法部の部室はご想像の通り(?)、控えめに言ってもあまり清潔にしていたとはいいがたく、我々はこれほどの大先生の傑作建築文化財をあまりにももったいなく、無造作に使っていたのである。
ここに心より深く内田祥三先生にお詫びしたい。
しかし、こんなに貴重な建築物の中で過ごすのが当たり前だった学生時代は、本当に恵まれていたのだろうな、という思いを40年以上たってあらためて思い知る1日だった。