今回も内田祥三シリーズの続きである。
1939年、40年とアメリカ・サンフランシスコとニューヨークで万博が開催された。
1939/40年サンフランシスコ万博
このサンフランシスコ万博は、
正式名称「ゴールデン・ゲート万国博覧会」(Golden Gate International Exposition)であり、
会期は1939年2月18日〜10月29日、1940年5月25日〜9月29日の2期にわたるものであった。
この万博はゴールデン・ゲート・ブリッジ、ベイブリッジという今も観光客を集める橋の開通記念として、「トレジャー・アイランド」を会場として開催されたものである。
(「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」は1937年5月27日開通。「ベイ・ブリッジ」(サンフランシスコ=オークランド・ベイ・ブリッジ)は、1936年11月12日開通。)
この万博については<38>サンフランシスコで自動シャトルバスサービス開始のニュースで詳しくお伝えしたとおりであり、サンフランシスコ版「太陽の塔」やウェスティングハウスのロボットなどいろいろなトピックスを残した万博である。
<38>でも次のように書いた。
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1939年、40年といえば、戦争が日米両国に忍び寄っていた頃である。
それにもかかわらず、日本は大きさでもコストでも、米国の連邦ビルディングに次ぐ2番目の規模で出展した。
資料を見ても日本の城と日本家屋を合わせたような感じである。また、回遊スタイルの日本庭園も設置されている。
万博終了後、日本はこの建物を無料で誰かに譲るというオファーをしたが、この建物を関税なしで持ち込んでいたので、その関税を払える引き取り手がなく、結局、1941年5月に焼却処分されてしまったという。
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1939/40年ニューヨーク万博
そして、同じ1939年、40年にニューヨークでも万博が開催された。
正式名称は「ニューヨーク万国博覧会」(New York World’s Fair 1939/1940)
会期は1939年4月30日〜10月31日、1940年5月11日〜10月27日の、これも2期にわたるものであった。
テーマは1939年が「明日の世界」(The World of Tomorrow)、1940年が「平和と自由のために」(For Peace and Freedom)
この万博の開催の理由として、ジョージ・ワシントン米国初代大統領就任150周年記念ということもあった。
会場は、現在、フラッシング・メドーズ・コロナ・パークと呼ばれている公園である。場所的には、現在のラ・ガーディア空港に近く、もともとコロナ・ダンプと呼ばれるゴミ捨て場の湿地帯だったところだ。
約210メートルの高さを誇る三角錐「トライロン」と、直径約60メートルの巨大な球体「ペリスフィア」をシンボルとするその会場は広大で、面積約500ヘクタール。広さでは1904年のセントルイス万博(508ヘクタール)にわずかにおよばず万博史上第2位(当時)、という規模を誇っていた。この地域を公園として再開発することも万博の目的の一つで、万博で利益がでた場合、200万ドルは優先的に公園の開発資金にあてられる予定になっていた。
会場のシンボル、「トライロン」と「ペリスフィア」は、フーバー社の流線型掃除機やニューヨーク・セントラル鉄道の弾丸型列車「20世紀号」を生んだ、当時売れっ子のインダストリアル・デザイナー、ヘンリー・ドレイファス(1904~1972)が手がけたものだった。
「ペリスフィア」の内部には、テーマ展示「デモクラシティ」という造語を名前にしたパノラマが展開されていたが、これは、労働人口25万人、人口100万人の未来の大都市をイメージしたものだった。
今はなき「国際連盟」が、国際機関として初めて万博参加したのもこの万博だった。
また、この万博でも、サンフランシスコ万博同様、ウェスティングハウスが人型ロボット「エレクトロ」(Elektro)や犬型ロボット「スパーコ」(Sparko)を展示した。
また、ニューヨークにおいては5000年後まで開けてはならない「タイムカプセル」を万博会場地下15メートルの地点に埋めるプロジェクトなどのトピックスを残している。
日本からは御木本が、「リバティ・ベル」(自由の鐘)を出展した。これは、1776年7月4日、アメリカの独立宣言が採択された際に打ち鳴らされたリバティ・ベルを真珠で模したもので、なんと、1万2250個もの真珠と、366個のダイヤモンドが使用されていた。フィラデルフィア独立記念館に保存されている実際のベルの3分の1の大きさで、本物の鐘と同じように、ひび割れまで青い真珠で表現されている。この真珠によるリバティ・ベルは、「100万ドルの鐘」としてアメリカ中を驚かせたという。
両万博の日本館を設計した内田祥三
さて、この両方の万博の「日本館」を設計したのが、内田祥三(うちだ よしかず、1885-1972)であった。
このところ、ずっとこのブログでご紹介してきた、東大本郷キャンパスの安田講堂や東大総合図書館、二食、そして七徳堂などの名建築、また駒場キャンパスの「旧第一高等学校本館」(現在の「1号館」)、「講堂(900番教室)」、今はなき「旧一高寄宿舎中寮、北寮、南寮、明寮」(「駒場寮」)などを設計した、のちに東大総長になる人物である。
『内田祥三先生作品集』(以下『作品集』)によると、つぎのようにある。
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日本はニューヨークに神社風の、サンフランシスコに仏寺風の日本館を建設した。
前者が岸田日出刀博士,後者が松下清夫博士の案を基調にしたもので,内田先生が全体の指揮をとられた。先生のお話によれば東大建築教室の“近くの人たち”に案を提出してもらい、それを伊東忠太、大熊喜邦の両博士と内田先生の三人で審査されたとのことである。
実施に当っては、ニューヨークのアーキテクト松井氏とコアーキテクトの契約を結んで当られた。先生の代理として土岐達人氏が派遣され、施工の大倉組(現大成建設)からは大学1年後輩の清水一氏が同行した。神社と仏閣、相も変らぬ日本調だと批評する人も当時あったが、全体を統括された内田先生は,その功によってニューヨークの名誉市民に推され、銀メダルを受けられた。
(太文字は筆者による)
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岸田日出刀といえば、内田が設計した「安田講堂」においては、講堂内の天井に「クモの巣のように、しかもなかなかうまいデザインで針金をめぐらせた」(『作品集』による)人物であり、かつ、「東大総合図書館」でも内田の助手をつとめていた。また、「東大総合図書館」前に今もある噴水の九輪のデザインをした人物でもある。
『作品集』をみると、たしかに、ニューヨークが神社風、サンフランシスコが仏寺風であり、伝統的な日本イメージを前面に出している感じである。
2年前の坂倉準三による1937年パリ万博日本館のデザインが鉄とガラスの斬新なモダンなものであったことを考えると、この両作品は、ふたたび時代を遡ってしまった感(「神社と仏閣、相も変らぬ日本調」)を与えたのも理解できる。
しかし、上記にあるように、内田祥三はこのニューヨーク万博の仕事により、ニューヨークの名誉市民に推され、銀メダルも受賞したとのことである。
第2次世界大戦前夜、というタイミングでの万博であったが、日本館の日本的なデザインに賞を贈ったということは、この時点ではまだアメリカサイドも日本にいろいろと平和への動きを期待していた、ということではないのだろうか。