サンクスギビングのパレード
さて、じつは筆者はこのたびのニューヨーク視察で、フラッシング・メドウズ・コロナ・パークを2回訪れることになった。
最初に訪れたのは2023年11月24日(金曜日)だった。
この時はここでご紹介しているほとんどの万博ゆかりの事物を視察した。
もちろん、この1日で終わらせる予定だったのだが、主な視察先の一つだったクイーンズ美術館(Queens Museum of Art)が、サンクスギビングの休暇でクローズしていたのである。
サンクスギビングは前の日の11月23日(木曜日)であった。
その日には、ニューヨーク・マンハッタンでは老舗デパート・メイシーズのパレードが大々的に開催され、筆者が泊まっていたホテルの近くの6番街は一般の交通が遮断され、いろいろなキャラクターのフロートが大勢の観客の中を練り歩き、大変な賑わいだった。
日本発のキャラクターも人気で、いくつも見かけることができた。
このパレードは最後はマンハッタンのメイシーズ(ブロードウェイと7番街、34丁目と35丁目に挟まれた区域にある)まで続くのである。
筆者はサンクスギビングの休暇は23日だけだと思いこんでいたので、24日にフラッシング・メドウズ・コロナ・パークへいったわけだが、クイーンズ美術館は無情にも閉まっていた。
この美術館はユニスフィアの西側すぐ近くに位置しているが、入り口のガラス扉にはその旨のポスターが貼られていた。
このポスターによると、サンクスギビングの休みは24日まで、つまり筆者が訪れた日まで、とある。
というわけで、24日はクイーンズ美術館以外のところを視察して終了した。
それでもその日は3万6千歩というこれまでにない歩数を記録した。
やはり、フラッシング・メドウズ・コロナ・パークは巨大だ。
さて、気を取り直して、再度訪れたのが11月26日(日曜日)。
この日は事前にネットで12時に入場予約をしておいた。
クイーンズ美術館へ
今回はちゃんとポスター通り美術館はオープンしていて、スマホの予約画面を見せて問題なく入館できた。
じつはこのクイーンズ美術館は1939/40年、1964/65年の2つのニューヨーク万博の「ニューヨーク市パビリオン」だった建物である。
1939/40年ニューヨーク万博時の「ニューヨーク市パビリオン」
この建物はもともと、1939/40年ニューヨーク万博の「ニューヨーク市パビリオン」として建てられたものである。
設計者はアイマール・エンベリー 2世(1880-1966 Aymar Embury II)。
ロバート・モーゼス(1888-1981 Robert Moses)とともに、ニューヨークの公園や橋の建設に携わった人物である。
さて、この1939/40年ニューヨーク万博版「ニューヨーク市パビリオン」は大変ユニークな施設になっていた。
というのも、今でも空港にその名を残す、当時のニューヨーク市長だったフィオレロ・ラガーディア(1882-1947 Fiorello La Guardia、ニューヨーク市長在任:1934-1945)が万博期間中、自分のオフィスをこの建物に移して、市政府の活動を来場者が見えるようにしたのである。
また、そのほか、ニューヨーク市警察が犯罪解決に科学的手法をどのように使用したかを示す「真夜中の殺人」(Murder at Midnight)など、市のさまざまな部門からの展示が展開されていた。
2つの万博の間は国連本部として使用
じつは、この建物はその後、国際連合本部として使用された。
1946年から1951年まではこの建物で国連総会が開催されたのであった。
ニューヨーク・マンハッタンの現在、国連ビルが建つ場所に国連本部ビルを建設する、という決議も、ここ、元1939/40年ニューヨーク万博版「ニューヨーク市パビリオン」にあった国連本部で行われた。(1946年12月14日)
ちなみに、この土地は、ジョン・ロックフェラー2世の寄付、ということである。
そして、「ホール・オブ・サイエンス」の設計者、ウォレス・カークマン・ハリソン(Wallace Kirkman Harrison, 1895- 1981)のチームの設計による国連本部ビルが現在の場所に建設されたのである。着工は1948年、竣工は1952年。
国連がマンハッタンに移動してからは、この建物はアイススケートリンクの施設等になっていたが、その後はほとんど使われることもなく放置されていたという。
1964/65年ニューヨーク万博時の「ニューヨーク市パビリオン」
そして、この建物は1964/65年ニューヨーク万博時に再び「ニューヨーク市パビリオン」として活用されることになる。
今回の万博におけるニューヨーク市のプレゼンテーションのハイライトは、なんといってもニューヨークの巨大なパノラマだった。
このパノラマは 180×100 フィート(約55m×30m)という巨大なサイズだった。
このパノラマではニューヨーク市内の 5 つの自治区にあるすべての建物が再現された。
じつは、この巨大で精巧なパノラマは、今もクイーンズ美術館に常設展示されて、定期的に最新のものにアップデートされているのである。
現在のクイーンズ美術館
現在のクイーンズ美術館は大きく分けて3つのパートからなっている。
「ニューヨーク市のパノラマ」(The Panorama of the City of New York)
やはりメインは、上記の「ニューヨーク市のパノラマ」(The Panorama of the City of New York)である。
この展示には1階から入って2階から出ることができる。
「万博ギャラリー」(World’s Fair Gallery)
そして、2階に出たところにあるのが「万博ギャラリー」(World’s Fair Gallery)である。
ここには、1939/40年、1964/65年両方のニューヨーク万博関連のグッズが多数展示されている。また、この2つの万博に関連したビデオがモニター上にずっと上映されている。
万博関連グッズはバッジやコインのようなものからパビリオンの模型、列車のサインなど正直に言えばまとまりのない寄せ集めである。
万博関連の事物など無数にあるので、系統だって収集・展示することは非常に難しいと思われるが、ここにある展示を見るだけでも、当時の雰囲気が味わえて興味深い。
ティファニー関連の展示
そして3つ目がティファニー関連の展示である。
創業者チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902)の長男、ルイス・カムフォート・ティファニー(1848-1933)関連の展示が充実している。
なぜ、ここにティファニーの展示があるかというと、じつはルイス・カムフォート・ティファニーは工房をここ「コロナ」の地(「コロナ」はフラッシング・メドウズ・コロナ・パークの西側に位置する街。)に建てていたからである。
彼がここコロナの地に土地を購入したのが1893年。
そして事業の拡大にともなって1900年ころまで工房は拡大していく。
しかしその後1920年代には縮小していき、1930年頃に最終的に閉鎖されたという。
チャールズ・ルイス・ティファニーはニューヨーク・マンハッタンで開催された1853-54年ニューヨーク万博*にも出展している。この時は、シード・パール(小型真珠)を用いた1000ドルのスイート・ジュエリーなどを出展したのであった。
ティファニーは、このニューヨーク万博にかぎらず、いろいろな万博に頻繁に出展している「万博の常連」である。
このことについては、拙著「万博100の物語」第29話に詳しく書いたのでそちらをご参照いただきたいが、機会があればまたこのブログでも改めてご紹介することとしたい。
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「1939/40年ニューヨーク万博」のように、1939年4月30日から10月31日、1940年5月11日から10月27日、と2つの会期に分けて開催された場合は、「1939/40年」と表記する。
一方、「1853-54年ニューヨーク万博」のように1853年7月14日から1854年11月1日まで継続して一つの会期として開催された場合は「1953-54年」と表記する。