<95>いわいとしお×東京都写真美術館「光と動きの100かいだてのいえ」展

1915サンフランシスコ万博
「光と動きの100かいだてのいえ」展入り口サイン photo©️Kyushima Nobuaki

いわいとしお×東京都写真美術館「光と動きの100かいだてのいえ」展

この展覧会は東京・恵比寿の東京都写真美術館で2024年7月30日から11月3日まで開催中である。

「光と動きの100かいだてのいえ」展ポスター
photo©️Kyushima Nobuaki

東京都写真美術館(TOP MUSEUM) アプローチ
photo©️Kyushima Nobuaki

東京都写真美術館(TOP MUSEUM) アプローチ
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展入り口サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

この展覧会は、このタイトルのあとに、「 ー 19世紀の映像装置とメディアアートをつなぐ」とあるように、いわいとしおの作品だけではなく、19世紀のさまざまな歴史的な映像装置もレプリカなどが展示されている。
その中にはエジソンの「キネトスコープ」リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」など1900年パリ万博などに活用された技術もあり興味深い。

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」(レプリカ 日本大学藝術学部映画学科)
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」(レプリカ 日本大学藝術学部映画学科)
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
エジソンの「キネトスコープ」(レプリカ 日本大学藝術学部映画学科)
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
エジソンの「キネトスコープ」(レプリカ 日本大学藝術学部映画学科)
photo©️Kyushima Nobuaki

来場者はいろいろな展示物に実際に触って体験できるようになっている。

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
<時間層IV> や<Well of Lights>(1992、エクスプロラトリアム蔵、アメリカ)で 形にした、さまざまな架空の生物が水中に浮かび、うごめくイメージを小さくシンプルな機材で実現させた作品(解説より)
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「光と動きの100かいだてのいえ」展 展示風景
「ゾートロープ」などさまざまな映像手法が体験できる
photo©️Kyushima Nobuaki

いわいとしお と 岩井俊雄

岩井俊雄(いわいとしお 1962- )は日本のメディアアーティストである。
この名前の漢字とひらがなの使い分けが気になるが、今回の展覧会ホームページによると、次のようにある。

人気絵本『100かいだてのいえ』の作者いわいとしおは、日本を代表するメディアアーティスト岩井俊雄でもあります。岩井は、幼少からアニメーションに強い興味を持ち、パラパラマンガや驚き盤を現代のテクノロジーによって進化させた作品<時間層>シリーズによって、独自のメディアアートを確立しました。この展覧会では、岩井のメディアアートと、その原点となる19世紀の映像装置をつなぎ、光と動きが生み出す視覚体験の面白さと、それらを作り上げた科学者や芸術家たちの飽くなき探求心を解き明かします。

つまり、絵本作家としては「いわいとしお」、メディアアーティストとしては「岩井俊雄」ということなのだろう。

岩井俊雄と1992年セビリア万博

さて、この岩井俊雄、Interaction95のホームページによると、次のようにある。
岩井俊雄も万博に作品を出品していたのである。

(前略)
91年秋より8ヵ月間サンフランシスコ・エクスプロラトリアムにて客員芸術家として作品制作。92年スペイン・セビリア万博日本館に作品出品。
(後略)

1992年セビリア万博は、コロンブスのアメリカ大陸到達500年を記念して開催された。同じ年にバルセロナではオリンピックが開催され、世界の2大祭典が同時にスペインで開催された「スペイン・イヤー」だった。

このセビリア万博は「発見の時代」として、コロンブスのアメリカ大陸到達500年記念として開催され、108カ国が参加し、4181万人という多くの来場者を集めた。コロンブスの大陸「到達」と、全体テーマの「発見」というのは実は違和感がある。実際この点はいろいろと議論になったらしい。

1992年セビリア万博の日本館

この1992セビリア万博の日本館の出展テーマは「WHYの発見・日本の由来と未来」であり、パビリオン設計は安藤忠雄
”生なりの文化”を表現した白木の木造建築で、間口60メートル奥行40メートル、高さ25メートルの世界最大級の木造建築であった。

テーマ展示は下記5つのセクションで展開された。
第1室 日本の伝統 (折り紙と和紙による日本の原風景の展示)
第2室 外来文化の吸収と日本 (外来文化の吸収と日本化の象徴としての仮名文字の誕生を紹介)
第3室 コロンブスの時代 (織田信長の建立による安土城天守閣の原寸大復元)
第4室 型の文化の成立 (紋様のパターン化を素材に表現)
第5室 新たな時代を迎えて (レーザー、光ファイバー、コンピューター等を駆使して20世紀の日本の発展を展示)

adcom-mediaの「ホログラフィーアートは世界をめぐる」の「第3回 セビリアからサンパウロへ」という石井勢津子氏による文章を読むと、この1992年セビリア万博日本館の展示(第5室)について紹介されている。
抜粋しよう。

1992年セビリア万国博覧会にホログラムのインスタレーションを展示した。4月20日から10月12日の会期で,スペイン第4の都市セビリアで「発見の時代」というテーマで開催された万国博覧会の日本政府館の第5室に,サイエンス・アートギャラリーが設けられ,私のほか,作間敏宏,原口美喜麿,佐藤慶次郎,岩井俊雄,松村泰三の6人のアート作品が展示された。このギャラリーは,長年科学と芸術をテーマに取り組んでいた坂根厳夫氏(朝日新聞退職後慶応義塾大学教授)が企画構成し,テーマは「光の縁日(日本の夏祭り)」であった。サイエンス・アートという名の通り,映像,サイバネティックスアート,キネティックアート,光のアート,そしてホログラフィーなどによる「夏祭り空間」を作り上げた。

サンフランシスコに今も残る万博のレガシー

さて、上記のInteraction95のホームページの紹介にある、岩井俊雄が91年秋より8ヵ月間客員芸術家として作品制作をしたというサンフランシスコ・エクスプロラトリアムであるが、これも万博がらみの施設であった。

1915年に開催された「サンフランシスコ万博」、別名「パナマ太平洋万国博覧会」
この万博は「パナマ運河開通記念」として開催された。
太平洋と大西洋を結ぶ「パナマ運河」は、1914年8月15日に開通したが、それを記念する万博を開催しようというアイデアは、サンフランシスコ以外にも、サンディエゴ、ニューオリンズから出されていた。

結局、サンディエゴでは小規模な博覧会が開催されることになり、メインとしての万博は、サンフランシスコでおこなわれることになった。
この万博はパナマ運河開通を祝うとともに、パナマ運河が可能にした「太平洋の新しいトレード・センター」サンフランシスコのオープニング、という意味合いもこめられていた。

この万博では「シビック・センター」などが再建されたが、この時建てられた施設の中に「美術宮」(”Palace of Fine Arts”)もあった。
この施設は1969年から2013年まで「エクスプロラトリウム」(”Exploratorium”)という体験型科学学習施設として活用され、多くの来館者でにぎわっていたのである。

1915年サンフランシスコ万博の「美術宮」
以前の「エクスプロラトリアム」(2011年8月撮影)
photo©️Kyushima Nobuaki

1915年サンフランシスコ万博の「美術宮」
以前の「エクスプロラトリアム」(2011年8月撮影)
photo©️Kyushima Nobuaki

エクスプロラトリアムにあった「SAVE THE PALACE」のサイン(2011年8月撮影)
photo©️Kyushima Nobuaki

「エクスプロラトリウム」は2013年4月にサンフランシスコのエンバーカデロ沿いのピア15に移転して現在に至っているが、長い間「美術宮」(”Palace of Fine Arts”)内の施設として市民に親しまれてきたのである。

我々は知らず知らずのうちに万博の歴史の中に生きているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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