「ベル・エポック ー 美しき時代」展
東京・汐留のパナソニック汐留美術館で「ベル・エポック ー 美しき時代」展が開催中である。
正式タイトルは次のようなものである。
パリに集った芸術家たち
ワイズマン&マイケル コレクションを中心に
会期は2024年10月5日から12月15日まで。
「ベル・エポック」(フランス語:Belle Époque、 「美しい時代」)といえばまさにパリ万博の時代であった。
一般的には19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代をさす。
19世紀末の1900年にはパリで第5回目となる万博が開催された。
この1900年パリ万博は19世紀最後にして最大の万博であった。
会期は1900年4月15日〜11月12日。
参加国数は40、入場者数5086万人を誇った。
テーマは「19世紀のオーバービュー」ということで、19世紀終わりの年-1900年-に、19世紀を総括しようとしたものであった。
この1900年パリ万博後、ベル・エポック中にはパリで万博が開催されてはいないが、その後1925年にアール・デコ博が開催されることになる。
この「ベル・エポック」はその間の時期であった。
1900年パリ万博に関与したアーティストも多かった。
それでこの展覧会でも万博関連の人物が多く登場する。
多くの万博関連人物の作品も
たとえば、次のような人物がこの展覧会で取り上げられている。
アレクサンドル・カバネル
エドゥアール・マネ
オディロン・ルドン
オーギュスト・ロダン
クロード・モネ
ピエール=オーギュスト・ルノワール
エミール・ガレ
ドーム兄弟
ルネ・ラリック
アルフォンス・ミュシャ
アンリ・リヴィエール
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
モーリス・ドニ
ジョルジュ・ルオー
エリック・サティ
ポール・ポワレ
サラ・ベルナール
ロイ・フラー
このブログで取り上げた人物も多い。
ロイ・フラーと1900年パリ万博
今回は、普段の展覧会ではあまり取り上げられることのないロイ・フラー関連の作品が展示されていた。
シャルル・モラン《ロイ・フラー(オレンジ色の衣装)》 1895年頃
という2点である。
ロイ・フラー(Loie Fuller, あるいは Loïe Fuller, 1862-1928)はアメリカ出身のダンサーであり、モダンダンスと舞台照明技術両方の分野のパイオニアであった。
現在でもそのスカーフ・ダンスの映像が残されている。
そして、舞台芸術のプロデューサーであった。
1900年パリ万博にも参画している。
当初は「パレ・ド・ラ・ダンス」という会場にて出演していたが、途中から自分専用の劇場「ロイ・フラー劇場」を万博会場内に設置した。
この劇場では、初めてステージに電気照明が用いられた。
1900年パリ万博ではエジソンが発明した電球が本格的に取り入れられ、「光パビリオン」がもうけられたりして、電気を使った「光」に関心が集まっていたが、舞台芸術にもその先端技術が使用されたのである。
この劇場では1895年のダンス・パントマイム作品『サロメ』から抜粋したダンスを含めた、4作品を上演した。
川上音二郎・貞奴一座のプロデューサー
そして、ロイ・フラーは、日本からはるばるやって来た、川上音二郎・貞奴一座のプロデューサーでもあった。
川上音二郎(1864-1911)といえば、明治の政治や風俗を風刺したオッペケペー節で有名なエンターテイナーで、その妻の貞奴(1871-1946)は後に一座の俳優となる。
彼の率いる川上音二郎一座は海外進出にも積極的だった。
一座は1899年からアメリカ巡業へおもむく。
当初はいろいろと苦労が多かったようだが、徐々に人気となっていく。
サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、ボストン等を経て1900年1月29日に首都ワシントンに到着する。
ワシントンでの公演はマッキンリー大統領も観劇した。
その後、ニューヨークでの公演後、海を渡り、1900年5月8日、一行はロンドンへ到着する。
彼らはヨーロッパで公演をおこなった最初の日本人といわれている.
英国の観衆はこのエキゾチックな演劇団に熱狂した。そしてとうとうバッキンガム宮殿において皇太子エドワード(後のエドワード7世)の面前で芸を披露するという栄誉に浴するまでになるのである。
そしてこのロンドン滞在中にパリ万博での契約が結ばれ、1900年7月4日からロイ・フラーのパビリオンで公演することとなったのである。
大ブームとなった「ハラキリ」とサダヤッコ
この日本の一座は、パリで大変なブームを巻き起こした。公演では、少なくとも1回は「ハラキリ」がおこなわれるのが「お約束」となっていたようである。
その一座の中で、特に人気を博したのが貞奴だった。彼女の演技は、さまざまな文化人にも、大新聞「フィガロ」にも絶賛されている。作家のアンドレ・ジイドや音楽家クロード・ドビュッシーなども、貞奴から強烈な感動を受けたとされている。
一座は1903年まで欧米巡業を続けたが、貞奴人気はとどまるところをしらず、現在も香水で有名なゲラン社は、貞奴にちなんで「ヤッコ」という香水を売り出した。また、「オ・ミカド」という店は、「キモノ・サダヤッコ」という室内着を売り出し、万博で受賞するほどであった。そのほかにも「サダヤッコ石鹼」など、商品名にその名を使われるほどの「ブランド」になっていたのである。
18歳だったパブロ・ピカソ(1881-1973)も貞奴ファンの一人だった。
彼は、貞奴のスケッチを残している。これは、1901年、再び訪れたヨーロッパで興行中の貞奴からポスター制作を頼まれて描いたもの、とピカソが語ったと伝えられている。
ピカソの貞奴への思いはかなりのものだったようで、「貞奴の芸はエッフェル塔の高さに匹敵する」と絶賛していたという。
また、貞奴はそのほか、ロダンやクレーなどの彫刻家や画家にも影響を与えた。欧米でもっとも早くその名を知られることになった日本女性といっても差し支えないだろう。
今も聞ける川上一座の音声
実は、20世紀末にこの1900年パリ万博での川上一座の録音が発見された。ブリガム・ヤング大学日本語科准教授J・スコット・ミラー氏による発見で、「グラモフォン社」という会社が川上一座の公演を録音していたものが見つかったというのだ。それをCDにした『甦るオッペケペー 1900年パリ万博の川上一座』(東芝EMI)が入手できたのでさっそく聴いてみた。
この録音で『オッペケペー』をはじめとして28の演目を聴くことができる。
当時の日本人の声、あるいは日本語が意外と現在のものと変わらないことに驚くが、聴いているうちになぜか1900年のパリにタイムスリップしたような気がしてくるのである。
谷中霊園に残る川上音二郎の碑
この川上音二郎、今は東京・谷中霊園にその碑がある。
谷中霊園といえば数々に歴史的人物の墓がある大規模な墓地である。
東京都が管理している墓地のほか、寛永寺や天台寺の墓等も隣接し、複雑ながら巨大な墓地群を形成している。
ここには、万博がらみで言うと、あの新一万円札の渋沢栄一なども眠っている。
川上音二郎の碑は、今はその谷中霊園の霊園事務所前に顕彰碑の台座が残っているのみである。
上の銅像は第二次世界大戦中の金属供出により撤去されてしまったらしい。
また、墓は九州博多の承天寺にあるらしい。
しかし、谷中霊園を訪れて、その川上音二郎の碑の前に佇むと、いつもまにか、彼が活躍した100年以上前の1900年パリ万博と、その万博でその名を高めた演劇人の波瀾万丈な人生に想いを馳せてしまうのであった。