<108>東博の特別展「はにわ」と「日本萬国博覧會」

1940 Tokyo
特別展「はにわ」展示風景  photo©️Kyushima Nobuaki

はにわブーム?

東京国立博物館の平成館で

挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」

という展覧会が開催中である。

特別展「はにわ」サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

開催期間は2024年10月16日(水) ~ 2024年12月8日(日)。

東博のホームページには次のようにある。


埴輪とは、王の墓である古墳に立て並べられた素焼きの造形です。その始まりは、今から1750年ほど前にさかのぼります。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝えています。

なかでも、国宝「埴輪 挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。この埴輪が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結します。素朴で“ユルい”人物や愛らしい動物から、精巧な武具や家にいたるまで、埴輪の魅力が満載の展覧会です。東京国立博物館では約半世紀ぶりに開催される埴輪展にどうぞご期待ください。

<106>「ハニワと土偶の近代」展と「日本萬国博覧會」でご紹介したように、東京国立近代美術館でも「ハニワと土偶の近代」展が開催中である。

両方とも多くの来場者を集めているということで、ちょっとした「はにわブーム」が来ているのかもしれない。

東京国立近代美術館の展覧会には「埴輪」そのものというよりは、近代になって「埴輪」がどう描かれてきたか、どう人々に影響を与えてきたか、が展示されていたが、今回の東博の展覧会では「埴輪そのもの」「本物の埴輪」が多数展示されており、圧倒的な迫力である。
国宝に指定されている作品もたくさん展示されている。

また、
「埴輪 挂甲の武人」5体勢揃い!
ということで、群馬県の同一工房で製作されたと考えられる埴輪が、遠くはアメリカ・シアトルから里帰りして、まとめて5体鑑賞できる部屋もあり、これを逃すと一生見れない可能性も高い。

特別展「はにわ」展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景 
国宝「埴輪 挂甲の武人」東京国立博物館蔵
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景 
「埴輪 挂甲の武人」アメリカ・シアトル美術館蔵
photo©️Kyushima Nobuaki

その他、筆者の好きな馬や犬の埴輪や家の埴輪などもあり、なかなか楽しめる。

特別展「はにわ」展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景 
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景 
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景 
photo©️Kyushima Nobuaki

特別展「はにわ」展示風景 
photo©️Kyushima Nobuaki

埴輪と万博

<106>でもご紹介したように、1893年シカゴ万博でも、日本出展の中に埴輪が含まれていたなど、万博とも関係がある。

第2次世界大戦前、埴輪は富士山と並んで日本の象徴となっており、「紀元(皇紀)2600年記念行事」のイメージにも使われていた。

そしてその「皇紀2600年記念行事」のひとつとして計画されたのが、東京・月島を会場予定地とした「日本萬国博覧會」だった。

この万博は結局1938年7月15日の閣議で「延期」が決定し、東京で開催されることはなかった。

この通称「幻の万博」についてちょっとご紹介したい。

「日本萬国博覧會」(「幻の万博」)

この万博は紀元(皇紀)2600年記念という名目で、東京・月島(現在の晴海)一帯を東京会場、横浜山下町・山下公園一帯を横浜会場として計画されていた。

しかし、太平洋戦争が始まる前、内外ともに騒がしい時期で結局中止になったのである。

この「幻の万博」のメインゲートとして造られたのが、現在も東京に残る「勝鬨橋」である。

この時のテーマは「東西文化の融合」であった。

アジアで初の万博を開催するにあたって、「建国以来、二千六百年間の日本民族発展の歴史は東洋文化と西洋文化の融合の歴史である」というところから決まったらしい。

『日本萬国博覧会行進曲』

この万博のために行進曲まで作られていた。
この曲は、歌詞が一般公募されたものであり、1938年4月に『日本萬国博覧会行進曲』として発表された。

歌詞は下記の通りである。

一、
若き亜細亜の 黎明(しののめ)に
命輝く 新日本
見よ悠久を 貫ぬける
大和心の その精華
おゝ 絢爛と今ひらく
日本萬国博覧会

二、
大和櫻の 潔きあり
秀麗富士の 高きあり
見よ比(たぐひ)なき 清明の
歴史が生める 大文化
おゝ 清新の香に薫る
日本萬国博覧会

三、
世界は集ふ 極東の
櫻の國の 朝ぼらけ
見よ匂やかに 咲き誇る
産業日本光あり
おゝ 躍進の意氣燃ゆる
日本萬国博覧会

四、
星霜二千六百年
試煉に耐へて 我等あり
見よ洋々と 展(ひら)けゆく
若き日本の 大使命
おゝ 潑剌と幕ひらく
日本萬国博覧会

「抽籤券附回数入場券」

また、この万博のために「抽籤券附回数入場券」が販売された。

1939年3月10日には、総額1000万円分の第一回「抽籤券附回数入場券」が発売されている。

販売価格10円で大人入場券が12枚綴になっているもので、当選金は1等賞金2000円が360本、2等賞金100円が1600本、3等賞金10円が1万2000本となっており、合計100万円に達する当選金が設定されていた。

つまり入場券売り上げの10パーセントを当選金に回したということである。

ちなみに抽選券付きの万博入場前売り券はこれが初めてではなく、1889年パリ万博、1900年のパリ万博、そして1933年シカゴ万博でも採用されていたものだ。

そしてなんと、その抽選券付き入場券は、戦後やっと開催された1970年大阪万博でも使用可能だった。
そして2005年愛知万博でも使用できたのである。

「バンパク」は「バンハク」と呼ばれていた!?

ちなみに、当時はこの万博のために「萬博」という雑誌が毎月発行されていた。

この「萬博」という雑誌。
実は創刊の昭和11年(1936年)5月からしばらくはローマ字表記がないが、昭和12年(1937年)11月号からずっと裏表紙には「BANHAKU」というローマ字表記がある。

当時「萬博」は「バンハク」と発音されていた可能性があるのだ。

これが途中から「BANPAKU」になるのだが、調べていくとそれは昭和14年(1939年)1月号からだ。

昭和13年(1938年)12月号までは「BANHAKU」になっている。

何があったのかわからないが、そういう意味では1939年というのが日本における「バンパク」元年ということかもしれない。

そんな「日本萬国博覧會」が企画されていた時代に日本の象徴のひとつとして取り上げられることが多かった「埴輪」。

なるほど、数多くの「埴輪」をこの展覧会で見ると、その素朴でおだやかな表情など、西洋にはない日本人独自の「原点」を埴輪に求めたくなる気持ちもスッと理解できるような気がするのであった。

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