アルフォンス・ミュシャと1900年パリ万博
<118> 「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」では、今東京・渋谷のヒカリエホールで開催中の「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」についてご紹介した。
今回は、引き続き、その展覧会でも触れられていた1900年パリ万博とアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)の関係についてご紹介していきたい。
1900年パリ万博のボスニア・ヘルツェゴビナ館
今回のメイン映像でも1900年パリ万博関連のものが取り上げられていた。
また、展覧会図録によると、ミュシャはこの万博でボスニア・ヘルツェゴビナ館の内装で名を馳せた、とある。
じつは1900年当時のボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下にあった。
オーストリア・ハンガリー帝国は1878年のベルリン条約によってボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得したのである。
そして1900年代は、オーストリア・ハンガリー帝国内でボスニア・ヘルツェゴビナ併合の動きが強まっていた、という時代である。
ということで、1900年パリ万博にはオーストリア・ハンガリー帝国は
・ハンガリー
・ボスニア・ヘルツェゴビナ
という3つのパビリオンを出展していたのである。
そして、その3つのパビリオンは別々に運営され、コンセプトも独立したものであった。
今回のメイン映像では1900年パリ万博当時のパリが再現され、セーヌ川から各国パビリオンが並ぶ「ナシオン(国々)通り」を左手に見ながら進んでいき、左折してボスニア・ヘルツェゴビナ館の中に入っていく様子がバーチャル・リアリティ的に体感できるようになっていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ館では『1900年の万国博に産品を提供するボスニア』という作品がミュシャによって描かれた。
今回の図録のなかで、マリー・アンベイラ氏による文章の中には、次のようにある。
つまり、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の仕事だけではなく、オーストリア館のポスターの仕事も担当した、ということである。
この仕事でミュシャは銀メダルを獲得、さらには万博を主催したフランス政府からはレジオン・ドヌール勲章を受勲したのである。
1900年パリ万博の「10年展」に出展
さらに、ミュシャの1900年パリ万博への関与は、このボスニア・ヘルツェゴビナ館とオーストリア館の2つだけではなかった。
今回の「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」の解説や図録等には述べられていないが、じつはこの1900年パリ万博では、この万博時に美術展会場として建てられた「グラン・パレ」において、「10年展」(”Exposition Décennale des Beaux-Arts De1889 à 1900”)という美術展が開催された。
この「10年展」については
<82>アレクサンダー・カルダー展
<87>2024年パリ・オリンピックがスタート
という2つのトピックスにおいてすでに紹介した。
その中で紹介したように、この「10年展」は、1889年から1900年の美術を展示したものであった。
そしてその中にはアレクサンダー・カルダーの父、アレクサンダー・スターリング・カルダーの『Chant de la vague(波の歌)』という作品も含まれていた。
また、オーギュスト・ロダン、シダネル、マルタン、ルオー、ホイッスラー、アレクサンダー・スターリング・カルダー、ミュシャ、パブロ・ピカソ、ヘンリー・ムーアらの作品も展示されていたのである。
そして、このアルフォンス・ミュシャもこの「10年展」に出展していた。
筆者のもつ「10年展」のカタログによると、「オーストリア」からの出展として次の4点を出展している。
100. La Femme ;pannueau decoratif 『女性』 装飾パネル
101. Les Mois; desssins. 『月々』 デッサン
102. La Nature 『ラ・ナチュール(自然)』
最初の番号は、「オーストリア」出品リストの中の「絵画とデッサン」の出展作品に振られた番号である。
『ラ・ナチュール』の謎
上記でおわかりのように、
102 『ラ・ナチュール』
だけ材質等が書いていない。
じつは同じタイトルの『ラ・ナチュール』というサラ・ベルナールをモデルにした「彫刻作品」がオーストリア館で展示されたという。
「堺 アルフォンス・ミュシャ館(堺市立文化館)」のHPによると、次のようにある。
また、この『ラ・ナチュール』の元になった絵は『黄道十二宮』という作品だったということである。
ということは「10年展」カタログにおける『ラ・ナチュール』とは何だったのか。
もしかしたら、「10年展」カタログのミスで、彫刻作品『ラ・ナチュール』を、同じミュシャの作品ということで「絵画とデッサン」のリストに入れてしまった可能性もある。
あるいは、全く違う同じ『ラ・ナチュール』という平面作品だったのか。
プラハ・ミュシャ美術館のHPを調べていくと、ミュシャは同じ『ラ・ナチュール』という平面作品も制作していることがわかった。
1902年に出版された『装飾資料集』に『ラ・ナチュール』の平面デザインが含まれているようだ。
この資料集には、ミュシャの装飾デザインのための解説図が収録されており、その中に『ラ・ナチュール』の頭部や裸婦の習作が描かれているとのことである。
ということは、1900年パリ万博の「10年展」の『ラ・ナチュール』とは、彫刻作品ではなく、同じタイトルの平面作品だった、というのが妥当な結論といえるだろうか。
ミュシャはオーストリア館にブロンズ彫刻『ラ・ナチュール』を、グラン・パレの「10年展」に平面作品『ラ・ナチュール』を出展した、ということだろう。
さて、ミュシャは2025年大阪・関西万博にも関係してくるようだ。
この件については<120>でご紹介することにしよう。