<119>アルフォンス・ミュシャと1900年パリ万博

1900 Paris
「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景 photo©️Kyushima Nobuaki

アルフォンス・ミュシャと1900年パリ万博

<118> 「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」では、今東京・渋谷のヒカリエホールで開催中の「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」についてご紹介した。

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
photo©️Kyushima Nobuaki

今回は、引き続き、その展覧会でも触れられていた1900年パリ万博アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)の関係についてご紹介していきたい。

1900年パリ万博のボスニア・ヘルツェゴビナ館

今回のメイン映像でも1900年パリ万博関連のものが取り上げられていた。

また、展覧会図録によると、ミュシャはこの万博でボスニア・ヘルツェゴビナ館の内装で名を馳せた、とある。

じつは1900年当時のボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下にあった。

オーストリア・ハンガリー帝国は1878年のベルリン条約によってボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得したのである。

そして1900年代は、オーストリア・ハンガリー帝国内でボスニア・ヘルツェゴビナ併合の動きが強まっていた、という時代である。

ということで、1900年パリ万博にはオーストリア・ハンガリー帝国は

・オーストリア
・ハンガリー
・ボスニア・ヘルツェゴビナ

という3つのパビリオンを出展していたのである。

そして、その3つのパビリオンは別々に運営され、コンセプトも独立したものであった。

今回のメイン映像では1900年パリ万博当時のパリが再現され、セーヌ川から各国パビリオンが並ぶ「ナシオン(国々)通り」を左手に見ながら進んでいき、左折してボスニア・ヘルツェゴビナ館の中に入っていく様子がバーチャル・リアリティ的に体感できるようになっていた。

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
セーヌ川沿いに各国パビリオンが並ぶ「ナシオン(国々)通り」
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
セーヌ川沿いに各国パビリオンが並ぶ「ナシオン(国々)通り」
ボスニア・ヘルツェゴビナ館
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
ボスニア・ヘルツェゴビナ館内部
photo©️Kyushima Nobuaki

ボスニア・ヘルツェゴビナ館では『1900年の万国博に産品を提供するボスニア』という作品がミュシャによって描かれた。

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
ボスニア・ヘルツェゴビナ館内部 ミュシャの壁画『万国博に産物を提供するボスニア』
photo©️Kyushima Nobuaki

「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」風景
ボスニア・ヘルツェゴビナ館内部 ミュシャの壁画『万国博に産物を提供するボスニア』
photo©️Kyushima Nobuaki

今回の図録のなかで、マリー・アンベイラ氏による文章の中には、次のようにある。

・・・ボスニアのパビリオンの内装を担当するように懇願されたのである。それはフレスコ画法によるふたつの大きな歴史壁画を依頼されたことを意味し、またふたつの大きな寓意像『糸を紡ぐ女』と『刺繍をする女』の制作と、パビリオンの付属レストランのメニューをオーストリア館のポスターの仕事をはじめとする、他のグラフィックの仕事も付随した。(後略)

つまり、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の仕事だけではなく、オーストリア館のポスターの仕事も担当した、ということである。

この仕事でミュシャは銀メダルを獲得、さらには万博を主催したフランス政府からはレジオン・ドヌール勲章を受勲したのである。

1900年パリ万博の「10年展」に出展

さらに、ミュシャの1900年パリ万博への関与は、このボスニア・ヘルツェゴビナ館とオーストリア館の2つだけではなかった。

今回の「グラン・パレ・イマーシブ 永遠のミュシャ」の解説や図録等には述べられていないが、じつはこの1900年パリ万博では、この万博時に美術展会場として建てられた「グラン・パレ」において、「10年展」(”Exposition Décennale des Beaux-Arts De1889 à 1900”)という美術展が開催された。

この「10年展」については

<82>アレクサンダー・カルダー展
<87>2024年パリ・オリンピックがスタート

という2つのトピックスにおいてすでに紹介した。

その中で紹介したように、この「10年展」は、1889年から1900年の美術を展示したものであった。
そしてその中にはアレクサンダー・カルダーの父、アレクサンダー・スターリング・カルダーの『Chant de la vague(波の歌)』という作品も含まれていた。

また、オーギュスト・ロダン、シダネル、マルタン、ルオー、ホイッスラー、アレクサンダー・スターリング・カルダー、ミュシャ、パブロ・ピカソ、ヘンリー・ムーアらの作品も展示されていたのである。

そして、このアルフォンス・ミュシャもこの「10年展」に出展していた。

筆者のもつ「10年展」のカタログによると、「オーストリア」からの出展として次の4点を出展している。

99. Notre Pere, ;aquarelle  『私たちの父』水彩
100. La Femme ;pannueau decoratif 『女性』 装飾パネル
101. Les Mois; desssins. 『月々』 デッサン
102. La Nature 『ラ・ナチュール(自然)』

最初の番号は、「オーストリア」出品リストの中の「絵画とデッサン」の出展作品に振られた番号である。

『ラ・ナチュール』の謎

上記でおわかりのように、

102 『ラ・ナチュール』

だけ材質等が書いていない。

じつは同じタイトルの『ラ・ナチュール』というサラ・ベルナールをモデルにした「彫刻作品」がオーストリア館で展示されたという。

「堺 アルフォンス・ミュシャ館(堺市立文化館)」のHPによると、次のようにある。

ブロンズ彫刻『ラ・ナチュール』(1899-1900年)はオリジナルも含め、配色を変えた5つのヴァージョンが制作された。オリジナルは艶消しした金色のもので、1900年開催のパリ万国博覧会の際にオーストリア館で展示された。このタイプの『ラ・ナチュール』は堺市所蔵のものを含めて5点が確認されている。

また、この『ラ・ナチュール』の元になった絵は『黄道十二宮』という作品だったということである。

ということは「10年展」カタログにおける『ラ・ナチュール』とは何だったのか。

もしかしたら、「10年展」カタログのミスで、彫刻作品『ラ・ナチュール』を、同じミュシャの作品ということで「絵画とデッサン」のリストに入れてしまった可能性もある。

あるいは、全く違う同じ『ラ・ナチュール』という平面作品だったのか。

プラハ・ミュシャ美術館のHPを調べていくと、ミュシャは同じ『ラ・ナチュール』という平面作品も制作していることがわかった。

1902年に出版された『装飾資料集』に『ラ・ナチュール』の平面デザインが含まれているようだ。

この資料集には、ミュシャの装飾デザインのための解説図が収録されており、その中に『ラ・ナチュール』の頭部や裸婦の習作が描かれているとのことである。

ということは、1900年パリ万博の「10年展」の『ラ・ナチュール』とは、彫刻作品ではなく、同じタイトルの平面作品だった、というのが妥当な結論といえるだろうか。

ミュシャはオーストリア館にブロンズ彫刻『ラ・ナチュール』を、グラン・パレの「10年展」に平面作品『ラ・ナチュール』を出展した、ということだろう。

さて、ミュシャは2025年大阪・関西万博にも関係してくるようだ。
この件については<120>でご紹介することにしよう。

 

 

 

 

 

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