『1851年5月1日ヴィクトリア女王による大博覧会の開会式』
<137>でご紹介した『1851年5月1日ヴィクトリア女王による大博覧会の開会式』。
画家ヘンリー・コートニー・セルースが、1851年ロンドン万博の開会式においてカンタベリー大主教が祝福している様子を描いた大きな作品である。

『1851年5月1日ヴィクトリア女王による大博覧会の開会式』(“THE OPENING OF THE GREAT EXHIBITION BY QUEEN VICTORIA ON 1 MAY 1851”
今回はこの絵の中心、一段高いところに描かれている王族たちについてご紹介したい。
ここには前にたたずむ2人の子供を含めて11人の人物が描かれている。

『1851年5月1日ヴィクトリア女王による大博覧会の開会式』における王族たち
その中で男性は一番右の赤い服を着ている人物とセンターで黒い服をきている少年の2人である。
アルバート公
まず、この一番右の赤い服の一番背の高い男性だが、彼こそがアルバート公(Prince Albert, 1819-1861)である。
彼は王立委員会会長であった。
『1851年5月1日ヴィクトリア女王による大博覧会の開会式』の中のアルバート公

アルバート公 Prince Albert
アルバート公は、万博の国際的な成功に重要な役割を果たした。
彼は、万博の構想を最初に考案した王立芸術協会の会長でもあった。
1840 年、ドイツの小国ザクセン=コーブルク=ザールフェルトの統治者エルンスト 1 世公爵の息子であるアルバートは、従姉妹であるヴィクトリア女王と結婚した。
しかし、彼が移住した国で受け入れられるのは容易ではなかったのである。
アルバート公はイギリス国民から見ればあくまでも「外国人」であり、大歓迎されてイギリス入りしたわけではなかった。その役割も女王の婿というだけで、明確な仕事があるわけでもなかった。
アルバート公が自由に使える給料も、議会で値切られてしまうような状況だったのである。
彼の政治的影響力は当初は限られていたが、公教育と産業の促進の計画に熱心に取り組み、万博を大成功に導き、死後はハイドバークに巨大な記念碑が建てられるほどになったのである。
アルバート・エドワード(プリンス・オブ・ウェールズ)
そしてセンターで黒い服をきている少年はアルバート・エドワード (1841 – 1910)。プリンス・オブ・ウェールズである。
アルバート・エドワードは、ヴィクトリア女王とアルバート王子の長男で2人目の子供だった。
家族からは「バーティ」と呼ばれ、生後 20 日で「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を授かることになる。

中央手前右の少年がアルバート・エドワード、その左がプリンセス・ロイヤル

Albert Edward (Prince of Wales)
1901 年に女王が亡くなった時、彼は60 歳でエドワード 7 世として即位することになった。
彼はいくつか万博とも関連するエピソードをもつ人物である。
エドワードは、1889年パリ万博会期中に会場を訪れ、エッフェル塔に上ったという記録が残されている。
また、川上音二郎・貞奴の一座がヨーロッパ公演をした1900年、彼らはバッキンガム宮殿においてエドワードの前で芸を披露している。
その後一座はパリ万博のロイ・フラーのパビリオンで公演することになるのである。
ヴィクトリア・アデレード・メアリー・ルイザ(プリンセス・ロイヤル)
アルバート・エドワードの左に立つ少女がヴィクトリア・アデレード・メアリー・ルイザ(1840 – 1901)である。

Victoria Adelaide Mary Louisa, The Princess Royal
ヴィクトリアは女王とアルバート王子の長女だった。
弟のエドワードとは異なり、彼女は父親と多くの興味を共有していた。
1858年、彼女はプロイセン皇太子で後にドイツ皇帝となるフリードリヒ(1831-1888)と結婚した。
じつは、その未来の夫もこの絵にも描かれている。
アルバート公から右に向かって4番目の人物、彼こそがフリードリヒである。

Prince Frederick William of Prussia
彼女は芸術と産業に関する父親の考えをドイツに広めようとした。
彼女は未亡人となった母親と親密な関係を保ち、頻繁に手紙を書いた。
ヴィクトリア女王は、万博の開会式の時のことを、
と記している。
ヴィクトリア女王
そしてエドワードの向かって右手に立つのがヴィクトリア女王 (1819 – 1901)である。
『1851年5月1日ヴィクトリア女王による大博覧会の開会式』の中のヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王 Victoria
ヴィクトリア女王は、1851 年 5 月 1 日に万国博覧会を開会した。
彼女は日記に次のように記している。
ものすごい歓声、すべての顔に表れた喜び、建物の広大さ… オルガンの音 (200 の楽器と 600 の声、それは取るに足らないものでした)、そして地球上のすべての国の産業と芸術を結集したこの偉大な「平和の祭典」の創始者である私の最愛の夫、これらすべてが本当に感動的で、永遠に語り継がれる日でした。
彼女は会期中 34 回も万博を訪れることになるのである。