<20>1925年パリ「アール・デコ博」とは

1925 Paris Expo
1925年「アール・デコ博」 コンコルド広場エントランス Expo 1925 Arts Décoratifs Entrée Place de la Concorde

1925年パリ「アール・デコ博」

さて、<19>でご紹介した、マリー・ローランサン(1883 – 1956)が絵画作品を提供し、大きな話題を呼んだという「アール・デコ博」

この万博は、どんな万博だったのだろうか。

基本情報的には、次のような感じである。

名称:Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes
装飾芸術・現代産業万国博覧会
会期:1925年4月30日〜10月15日
会場:パリ。28.8ha。
1900年万博のあとにパリ市に寄贈されたグラン・パレやプティ・パレといった既存の展示館を利用。その他、仮設建設物はセーヌ川の両岸に設置された。1900年パリ万博の際に作られたアレキサンダー3世橋の上には、ベニス風の商店街が設置された。会場はアンヴァリッドまで延びていた。
参加国数:22
入場者数:1599万人

ちなみにBIE(博覧会国際事務局)のホームページも確認してみたが、この万博についての情報はなかった。もっと小規模な万博の情報ものっているのだが、なぜこの万博がのっていないのかはわからない。

また、入場者数については、1400万人と記してある資料もある。このあたりは、資料によって統一されていないが、そういったことは特に昔の万博についてはよくある話ではある。

この万博は、日本でも「アール・デコ博」と言われることが多いが、この万博のフランス語による名称「Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes」の略称にちなんで名付けられた「アール・デコ(Arts Décoratifs)」様式が国際的に流行するきっかけになった万博である。

もっとも、「アール・デコ」という様式の名前については、この博覧会期間中に流行した言葉ということではなく、ずっと後の第二次世界大戦後になってからそう言われるようになったらしい。当時は「アール・モデルヌ」(現代芸術)というふうに言われていたとのことである。

そういう事情もあり、この万博に出展された作品がすべて「アール・デコ様式しばり」ということでもなく、アール・デコ様式と言えるものがそこまで万博全体を席巻していたわけではなさそうである。

パリでは1855年に第一回の万博が開催され、その次が1867年。この間12年の間隔があいているが、その後は、次が1878年、1889年、そして1900年と11年おきに万博が開催されていた。

そうなると、次は1911年、ということになるが、1911年に万博は開催されていない。

じつは、フランス政府は当初、1915年に開催、ということで万博開催を進めていた。

しかし、第一次世界大戦(1914 – 1918)など諸事情もあり、結局当初計画から10年遅れて1925年に開催ということになった。博覧会の運用資金がわりあてられたのも1921年になってからである。

フランス政府は、フランスが、第一次世界大戦後の混乱にある産業美術、装飾美術の様式の審判者としての地位に復帰することを意図していた。産業としてのアートという意味ではイタリアやドイツが先行しており、フランスはその主導権を取り返そうとしていたのである。

諸説あるが、1900年のパリ万博は「アール・ヌーヴォー」を象徴する万博であったが、植物やその曲線を特徴とする「アール・ヌーヴォー」のモチーフが、その後のキュビズム運動や、1923年に発見されたツタンカーメンの墓に代表される古代エジプト文化などの影響を受けて、幾何学的、直線的なものに変容していって「アール・デコ」という様式になった、という。

なのでアール・デコは一部は曲線的でありながら、直線も目立つものとなった。

また、産業美術、という側面も大きかったので、ビジネスとしてそれを手がけるデパートもいくつかパビリオンを出展していたのもこの万博の特徴である。

たとえば、ルーヴル商会(ルーヴル百貨店)館、ギャルリー・ラファイエット館、オ・プランタン館、ボン・マルシェ館などである。

これらの百貨店は、アンヴァリッドの会場に、大規模なパビリオンを出展している。

1925年「アール・デコ博」
ギャルリー・ラファイエット館
Expo 1925 Arts décoratifs
Pavillon des Galeries Lafayette

1925年「アール・デコ博」
ボン・マルシェ館
Expo 1925 Arts Décoratifs
Bon Marché Pavilion

参加国は22とある。日本は参加したが、アメリカとドイツは参加していない。

1925年「アール・デコ博」日本館
Expo 1925 Arts Décoratifs, Japan Pavilion

ドイツは、第一次世界大戦の敗戦国、という事情もあった。

アメリカは1924年にフランスから万博に招待されたが、その時の商務省長官のハーバート・フーヴァーはそれを断ったらしい。

このハーバート・フーヴァー(1874 – 1964)という人物は、のちにアメリカ合衆国第31代大統領となる人物で、「フーヴァー研究所」設立のため、スタンフォード大学に5万ドルを寄付し、今もスタンフォード大学のキャンパス内に建つ「フーヴァー・タワー」に名を残している人物である。

スタンフォード大学キャンパス
奥に立つのがフーバー・タワー
Stanford University campus
Hoover Tower in the background

彼が1925年「アール・デコ博」への参加を断ったのは「アメリカには、現代的な装飾美術運動などはない」という理由だったようだ。

しかし、アメリカは国として公式には参加できなかったが、多くのアメリカ人がこの「アール・デコ博」を訪れた。

そして万博の翌年の1926年にはアメリカ美術館協会の主催でパリの「アール・デコ博」からの400点の作品による展覧会がアメリカを巡回した。

こういったことがきっかけになって、アメリカにもアメリカ式の「アール・デコ」運動が大流行していったのである。

アメリカのアール・デコを代表するものとしては、ニューヨークのクライスラー・ビル(1930)、エンパイアー・ステート・ビル(1931)等が有名である。いずれも一時は世界一の高さを誇ったビルである。その他、マンハッタンには多くの「アール・デコ様式」のビルが存在している。

日本では、たとえば東京の庭園美術館はアール・デコ様式を取り入れた建築物(旧朝香宮邸 1933)として有名である。正面玄関のガラスレリーフ扉はフランスのガラス工芸家で宝飾デザイナーでもあるルネ・ラリック(1860 – 1945)のアール・デコ様式の作品である。

庭園美術館
Tokyo Metropolitan Teien Art Museum

ルネ・ラリックのガラスレリーフ
Glass Relief by René Lalique

ルネ・ラリックのガラスレリーフ(室内から)
Glass Relief by René Lalique (From Inside)

ルネ・ラリックは「アール・ヌーヴォー」、「アール・デコ」両方の時代を生きた芸術家である。1900年パリ万博では宝飾品などを出展していた。

そしてこの1925年アール・デコ博ではラリックのために一つのパビリオンが与えられた。

ラリックは、アンヴァリッド会場の中に「ラリック館」を出展し、その前の広場には「ラリックの噴水」も設置した。この「ラリックの噴水」は、写真が残っているが、15層になっているブロックのようなところのそれぞれから斜め下に向かって同時に水が飛び出している。台湾の「台北101」の花火を思わせる大々的な噴水である。

1925年「アール・デコ博」
ルネ・ラリックの噴水
Expo 1925 Arts Décoratifs
Fountain by René Lalique

また、この1925年アール・デコ博では、建築家ル・コルビュジエ(1887 – 1965)が「エスプリ・ヌーヴォー(新精神)」館を手がけて評判になっていた。ル・コルビュジエはスイス出身の建築家で、東京の国立西洋美術館(2016年世界文化遺産登録)、フランスの「ロンシャンの礼拝堂」などで有名であり、画家としても活躍していた。

国立西洋美術館
The National Museum of Western Art

ル・コルビュジエ「ロンシャンの礼拝堂」
Le Corbusier “The Chapel of Notre Dame du Haut at Ronchamp”
photo©️Nobuaki Kyushima

この「エスプリ・ヌーヴォー館」というモダニズムの建築作品は、当時としてはかなり大胆なデザインで、一般には受け入れられず、非難が集中したため、万博運営組織はその建物を開会直前まで、高さ6メートルのフェンスで隠してしまうほどだったという。

この「エスプリ・ヌーヴォー館」も写真が残っているが、今見るとそんなに隠さなければならないほどのデザインとも思えない。ともかくモダンなデザインである。直線を中心とした四角い箱のようなデザインで、コンクリート(だと思われる)と四角いガラスの窓が見える。

そしてその横のピロティのようなところに1本大きな木があり、丸く切り抜かれた天井から空に突き出ている。このデザインになったのは、この木を切りたくなかったのではないだろうか。

この精神は、1851年ロンドン万博でハイドパークの大きな楡の木を切らずに済むように、クリスタル・パレスの天井のデザインを丸みを帯びたものに変えたものに近いのでは、とも思える。

1925年「アール・デコ博」
「エスプリ・ヌーヴォー館」
Expo 1925 Arts Décoratifs
L’Esprit Nouveau Pavilion

さらに、ソビエト連邦(1922 – 1991)のパビリオンはモスクワ郊外出身の建築家、コンスタンティン・メルニコフ(1890 – 1974)にまかされた。このパビリオンもまた、直線を多用しており、ル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー館」とともに世界の注目を浴びたという記録が残っている。

1925アール・デコ博 ソ連館
1925 Art Deco Expo USSR Pavilion

これもまた写真がのこっているが、モダニズムの建築に見える。今でも斬新なデザインと言えると思うが、そこまで驚くというようなものでもない。が、当時にしては相当前衛的なデザインだったことが想像できる。注目を集めたというのもうなづける。

ちなみに、「エスプリ・ヌーヴォー館」を手がけた建築家ル・コルビュジエは、この1925年「アール・デコ博」の後も万博に登場して話題を提供することになるが、その話はまた別の機会にご紹介することにしよう。

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