<33>「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展②

EXPO
デ・クーニング『一月』(部分) De Kooning "January"

ジョアン・ミロと万博

さて、前回の<32>では、「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展のSection 3までご紹介したが、この調子でSectionごとにコメントしていくと、Section12まであるのでいつまでたっても終わりそうもない。

そこで、これからは、筆者が万博的に気になるものを取り上げていこう。

Section 6 トランス・アトランティック」にはジョアン・ミロ(ジュアン・ミロとも。1893-1983)の作品がいくつか展示されている。

ミロ『絵画』
Miró “Painting”

ミロ『夜の女と鳥』
Miró “Woman and Birds in the Night”

このSection 6には「ピエール・マティスとその周辺」というサブタイトルがついている。ピエール・マティス(1900-1989)とは、アンリ・マティスの2番目の息子である。

ピエール・マティス画廊関連資料(ミロ関連)
Materials on Pierre Matisse Gallery

彼は、ニューヨークに画廊を設立し、ヨーロッパの前衛美術をアメリカに紹介した。

ジョアン・ミロは、特にピエール・マティスが力を入れた画家だったのである。

ジョアン・ミロについては、<9>話の「ミロの陶版壁画『無垢の笑い』」で触れた。

1937年パリ万博のスペイン共和国館では、ピカソの『ゲルニカ』とともに、ミロの『刈り入れ人』『スペインを助けよ』も展示されていた。

また、1970年大阪万博時に来日して、ガスパビリオンに作品を出展するなど、万博にもゆかりの深い画家である。

今回展示されている『三人姉妹』(Three Sisters1938年)という作品の図録解説には


…前年(筆者注:1937年)に開催されたパリ万博のスペイン・パヴィリオンで展示された《刈り入れ人》(1937年、消息不明)に代表されるような、人間の怒りと反抗が主題となっているように思われる。

という文章が載っている。

抽象表現主義の作家たちとニューヨーク万博

 「Section 7 抽象表現主義」では、アーシル・ゴーキー(Arshile Gorky 1904 – 1948)、ウィレム・デ・クーニング(Willem De Kooning, 1904 – 1997)、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 – 1956の作品も展示されているが、この3人の作家はいずれもニューヨーク万博に作品を出展していた人たちである。

ニューヨークでは主だったものとして、4回の万博が開催されている。

世界最初の万博であるロンドン万博が開催されてから2年後の1853年7月14日から1854年11月1日にかけて最初のニューヨーク万博がマンハッタンの今も残る「ブライアント公園」(当時は「レゼボア・スクエア)と呼ばれていた)で開催された。

2回目は1901年。マンハッタンから遠く離れたバッファローでの開催となった。ナイアガラの滝が可能にした安価な電力を使った万博だった。

この万博については、<7>岸田首相襲撃のニュースに万博を想う でご紹介した。

そして、20世紀に入って1939/40年、1964/65年と、現在、フラッシング・メドーズ・コロナ・パークと呼ばれている公園になっている場所で開催された。ラ・ガーディア空港の近くである。

ちなみに1964/65年ニューヨーク万博はBIEに認可されたものではない。

この抽象表現主義の画家たちが関与したのは、時代的に当然のことながら、1939/40年、1964/65年の万博、ということになる。

1939/40年ニューヨーク万博では、フェルナン・レジェ(Fernand Léger 今回の展覧会ではSection2、3に作品が展示されている)なども参加していたが、当時若手のアーティストだった、アーシル・ゴーキー(Arshile Gorky)、ウィレム・デ・クーニング(Willem De Kooningたちは、壁画で参加した。

ブレーズ・サンドラール(テキスト)/レジェ(挿画)『ノートルダムの天使が撮った世界の終わり』
Blaise Cendrars (text)/Léger (Illustration) “La fin du monde filmée par l’ange de N.-D

レジェ『抽象的コンポジション』
Léger “Abstract Composiiton”

また、1964/65年ニューヨーク万博では、「ベター・リビング・センター(“Better Living Center”)」で「アメリカン・アートの4世紀(”Four Centuries of American Art”)」が開催された。

この展覧会では、41点の絵画と5点の彫刻作品が展示されたが、その中に、ふたたびウィレム・デ・クーニング(Willem De Kooning)、そしてジャクソン・ポロック(Jackson Pollockの作品も含まれていたのだ。

やはり、我々の知る多くの作家は万博と無縁ではいられないらしい。

デ・クーニング『一月』
De Kooning “January”

実は今回の展覧会には、その他イサム・ノグチ(1904-1988)やアレクサンダー・コールダー(1898-1976)の作品も展示されている。

イサム・ノグチ『独り言』
Isamu Noguchi ” Soliloquy”

アレクサンダー・コールダー『単眼鏡』
Alexander Calder “Monocle”

イサム・ノグチは、1964/65年ニューヨーク万博に向けて、博覧会の「彫刻委員会(Committee on Sculpture)」から作品展示の打診を受けたらしいが、全く返事をしなかった、ということで参加はしていない。

ノグチが全くの無反応だったので、委員会は次にアレクサンダー・コールダーに声をかけることになった。

アレクサンダー・コールダーは1937年パリ万博のスペイン共和国パビリオンにピカソやミロとともに作品を出展している、万博とすでに関連がある人物である。

この1937年パリ万博時には、スペイン共和国パビリオンに、ピカソが『ゲルニカ』を、ミロが『刈り入れ人』を、そして、コールダーが『水銀の泉』を出展している。

しかし、1964/65ニューヨーク万博ではコールダーは招待を断っている。

ということでノグチもコールダーも1964/65のニューヨーク万博には関与していない。

ジョアン・ミロと瀧口修造と1970年大阪万博

次に筆者が注目したのは

Section 10 瀧口修造と実験工房

である。

瀧口修造(1903-1979)といえば、美術批評家であり造形作家である。

筆者にとっては滝口修造といえば、1970年大阪万博ジョアン・ミロ(今回の展覧会ではSection 6に作品が展示されている)との交流が思い浮かぶ。

ミロと1970年大阪万博については、前述のとおり、<9>ミロの陶板壁画『無垢の笑い』でご紹介した。

しかし、<9> でご紹介した中には記述していなかったのが、ミロと瀧口修造の交流である。

瀧口修造は、「世界で初めて」ミロに関する単行本を出版した人物でもあった。

2022年2月11日から4月17日まで東京渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催された(その後、愛知県美術館、富山県美術館へ巡回)「ミロ展 ― 日本を夢見て」の図録中、松田健児氏の論文(P24〜31)のなかに、詩人の大岡信の次のような証言が紹介されている。
これは、ミロと瀧口修造が初めて対面したときのことであるが、ミロが日本で開催される「ミロ展」のために初来日した1966年9月23日のことだった。


私はミロと瀧口修造の初対面の情景を鮮明に思い出す。その日私は朝からミロに同行していた。草月会館や銀座のいくつかの画廊を見てまわるのに同行して欲しいといわれたためだった。瀧口さんは、1940年にアトリヱ社から出した『ミロ』を2冊持って、南画廊で待っていた。ミロの同行は、マーグ画廊主のエーメ・マーグと、大冊のミロ研究を書いた詩人のジャック・デュパンだった。瀧口さんが、いつもの口籠る小声で、ついに逢うことのできたこの画家と二言、三言語り、20数年前の自著をミロたちに手渡したとき、デュパンが、『1940年?それでは、この本がミロについて書かれた最初の本ではないか!』と言ったのだ。このことは、瀧口修造自身は知っていたことだった。知られている限りでは、欧州でミロについての最初の単行本が出たのは、1941年のことだったからである。
ミロは感動して瀧口修造の肩を抱いた。少しも大げさにでなく。私はそのときの、この2人の無口な詩人の、言葉少ない抱擁を、鮮明に記憶にとどめている。

ミロと瀧口修造はこの後、親しくつきあい、瀧口修造の詩にミロが絵をつけた共作となる詩画集もいくつか残している。

Bunkamuraでの展覧会では、『ミロの星とともに』などの二人による作品が展示されていた。

今回の展覧会では、瀧口修造自身の絵画作品が多数展示されている。

瀧口修造『無題』
Takiguchi Shuzo “Untitled”

瀧口修造『無題』
Takiguchi Shuzo “Untitled”

画家としての瀧口修造はいろんな作風を試していたことがうかがえる。画業に詩にと、多才な人であったのだろう。

このように見ていくと、この「ABSTRACTION」展だけとっても、時を跨いでいろんな作家が万博と関連していることが思い起こされるのであった。

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