<93>アーティゾン美術館「空間と作品」展②

1900 Paris
「空間と作品」展サイン photo©️Kyushima Nobuaki

アーティゾン美術館「空間と作品」展

さて、<92> ではアーティゾン美術館「空間と作品」展①として、現在開催中の「空間と作品」展からパウル・クレーの所有者だった万博関連の人物などをご紹介した。

アーティゾン美術館外観
photo©️Kyushima Nobuaki

「空間と作品」展サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

今回は、もう一人、カミーユ・コロー(1796-1875)『ヴィル・ダヴレー』(”Ville d’Avray”)を所有していた万博関連人物についてご紹介したい。

カミーユ・コロー(1796-1875)『ヴィル・ダヴレー』と林忠正

今回は、「空間と作品」展に展示されているカミーユ・コロー(1796-1875)の『ヴィル・ダヴレー』(”Ville d’Avray”)をご紹介したい。

カミーユ・コロー『ヴィル・ダヴレー』

この作品は林忠正(1853-1906)という人物が所蔵していた作品である。
林忠正は19世紀後半の複数回のパリ万博にゆかりの深い人物である。

1978年パリ万博の機会に渡仏

林忠正は、1878年、24歳のころ大学南校(のちの開成学校、その後東京大学)でフランス語を学んでいたが、1878年パリ万博に参加する貿易会社「起立(キリツ、キリュウとも)工商会社」の通訳兼商品説明係として採用され、パリに渡った人物である。
そして万博終了後もパリを本拠地に日本美術品を売りさばくことになる画商である。

「起立工商会社」というのは、1873年ウィーン万博の際に、「博覧会事務局」副総裁だった佐野常民が、随行して物品販売を手掛けていた松尾儀助若井兼三郎に作らせた、欧米へ日本の物品を輸出するための会社である。設立は明治7年(1874年)。その後この会社は1876年フィラデルフィア万博にも参画している。
この会社に、1878年パリ万博のタイミングで、フランス語のできる林忠正が入社することになったのだ。そして結果的には、彼は1878年パリ万博後もパリに居残ることになる。

日本文化のキューレーター

実は、林忠正は単なる画商ではなく日本文化や日本美術のキューレーターのような人物でもあった。
1867年パリ万博での『北斎漫画』等の浮世絵紹介で火がつき、1878年パリ万博でその最高潮を迎えたともいわれるジャポニスムまっさかりのパリに根を下ろし、林忠正はエドガー・ドガ、クロード・モネ等印象派の画家たちとの親交もあった。

モネ『睡蓮の池』

アルベール・バルトロメにいたっては『林忠正のマスク』という作品を作っている。
林は、フランスで最も権威ある文学賞の一つである「ゴンクール賞」を創設したことで有名なエドモン・ド・ゴンクールなど、フランスにいた多くの研究者を助けて日本文化の正しい理解を促進しようと努力した明治人であった。

1900年パリ万博日本出展の「事務官長」

日本政府は、1900年第5回パリ万博の日本出展において、このような「現地事情通」の人物を起用することにした。このパリ万博出展のための「臨時博覧会事務局」設置に際し、林忠正に「事務官長」以下3つの役職を与え、日本文化紹介に注力したのである。

林忠正

ちなみに「事務官長」という職は通常、商工次官クラスの職位とされ、民間人で一商人とみなされていた林の大抜擢には反対も多く、日本の新聞はこぞってアンチ林キャンペーン、誹謗中傷を繰り広げたが、この人事は当時政治の中枢にいた伊藤博文らの強い推薦で決まったものらしい。
伊藤と林は、以前、伊藤がフランス訪問時に林が通訳を務めて以来の知り合いだったのである。伊藤はこのとき、林のヨーロッパにおける日本文化のあるべき姿への考え方を聞いて深く信頼し、この「事務官長」という大役を一民間人である彼に任せたのである。

その後、彼は伊藤らの期待に沿うように1900年パリ万博の日本出展を成功させる。
今回の「空間と作品」展にも『ブレハの少女』が展示されている黒田清輝もこの万博に『智・感・情』(当時のタイトルは『裸婦習作』)出展して銀賞を獲得した。

黒田清輝『ブレハの少女』

また、林が企画した約1000点の美術品からなる「日本古美術展」は、絶賛された展示だった。奈良時代に遡る日本のあらゆるジャンルの美術品が展示されたのだった。

そんな林は多くの作品を購入しているが、今回展示されているカミーユ・コロー(1796-1875)の『ヴィル・ダヴレー』(”Ville d’Avray”)も所蔵していた。

林が購入し、愛した作品という眼で見ると、この作品にもまた別の味わいが加わってくるのである。

 

 

 

 

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