国際赤十字は1873年ウィーン万博でも出展
東京港区芝大門の日本赤十字社本社1階にある「赤十字情報プラザ」で開催中の「万博と赤十字〜日赤発祥の原点は万博にあり〜」展について引き続きご紹介していこう。
さて、つづく1873年ウィーン万博でも国際赤十字はパビリオンを出展した。
今回もそれに関する資料が展示されている。
テント風の「パビリオン」と、その中の展示(義手や義足が認められる)の写真が展示されているのである。
佐野常民と渋沢栄一
このとき、1867年パリ万博では佐賀藩の代表として渡仏した佐野常民(さのつねたみ 1822~1902)が、澳国(おうこく)博覧会事務局副総裁としてウィーンを訪れた。
この時の総裁は大隈重信(1838~1922)であったがウィーンを訪れてはいない。
パリ万博時、江戸幕府サイドとして渡仏した渋沢栄一(1840~1931)もウィーンを訪れてはいない。
このウィーン万博と渋沢栄一の関係については、「渋沢栄一記念財団」の「渋沢栄一伝記資料」に記述がある。
このウィーン万博に関しては、開催一年前、渋沢が民部大蔵両省仕官時代の1872年(明治5年)2月20日にのところに次のようにある。
渋沢栄一と佐野常民との書簡も複数残っているが、その書簡を読むと、渋沢はこのころほかの業務等で大変多忙であったことがうかがえる。
多忙のため打ち合わせにいけない、といった内容の書簡がいくつか残されている。
そのため、渋沢は本格的に万博に携わるというよりは「養蚕書を編纂」ということに集中してかかわったということのようだ。
1867年パリ万博では幕府側と佐賀藩側(薩摩に同調して独立国のような表記をとった)という相反する側にいた2人だった。
そういったいきさつのあった、2人の関係はその後よくなかったのか、それとも良好な関係だったのだろうか。
上記の記述にあるように、ウィーン万博では渋沢も多忙のなか協力し、結果十数冊の資料を提出した形跡が残っているので、そこまで悪い関係ではなかっただろう。
そして何より、今回の展覧会でも展示されている資料にあるように、渋沢栄一も日本赤十字社(入社当時の名称は「博愛社」)の社員だったのである。
大隈重信も伊藤博文も日本赤十字社(博愛社)の社員だった。
ということは、1867年パリでの出会い以降も渋沢栄一と佐野常民は良好な関係を保っていたとみていいだろう。
「澳国博覧会参同記要」
この博覧会に関する資料としては「澳国博覧会参同記要」や「澳国博覧会報告書」というものが残されている。
この「澳国博覧会参同記要」の本物も今回展示されている。
この本にはこの万博についての概要とともに教育、山林管理、兵制、貿易、鉄道、工業等16章からなる「報告書」という名の提案書、そして「技術伝習」として、農業園芸、山林事業、活字硝子鉛筆製造、測量器製図、電信機械製造、造船事業、製陶技術など30章にわたる習得の記録が残されているのである。
そして121話でご紹介したように、博物館設立の提案書も含まれているのである。
(つづく)