ファーブル生誕200年
昨年2023年はファーブル生誕200年記念の年だった。
いくつかのテレビ、新聞などのメディアで特集が組まれたので、目に留めた方もいらっしゃるだろう。
『ファーブル昆虫記』で日本でも有名なジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 – 1915年10月11日)は、『昆虫記』で有名ではあるが、昆虫に限らず多くのことを研究した博物学者であり、教科書作家でもあった。
このファーブルと万博の関係については拙著『万博100の物語』の第33話でもご紹介した。
ファーブルとパスツールの出会い
その中でファーブルとパスツールという、ともに万博と関連した2人の人物の出会いについて書いた。
その辺りを抜粋してみる。
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ファーブルは1865年、41歳のころ、とある人物と出会っている。
その人物とはルイ・パスツール(1822~1895)。ワインに関する低温殺菌法で1867年第2回パリ万博においてグランプリを獲得することになる人物である(第14話)。パスツールは、化学者デュマに依頼され、当時南フランスの養蚕に大打撃を与えていた「カイコのコレラ」といわれた繭をおかす微粒子病への対策をたてるため、南フランスを訪れた。カイコの生態を調べるため、当時すでに大昆虫学者として名を馳せていたファーブルを訪問したというわけである。二人はほぼ同年齢である。
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実は、この二人の出会いについての一次情報はまさにファーブルの代表作である『昆虫記』にファーブル自身によって描かれているのである。
『昆虫記』に描かれたファーブルのパスツール評
『昆虫記』は全10巻にわたる大作である。
今回参考にした集英社の『完訳 ファーブル昆虫記』(2015年、訳者:奥本大三郎)は、その1巻が上下巻の2巻にわかれており、それぞれ厚さ3センチくらいある大作である。
そして、この二人の出会いは、『昆虫記』第9巻(下巻)23章に描かれているのである。
第9巻の下巻には9巻の15章〜25章が含まれるが、17章〜23章まではランドックサソリについての記述である。
その23章のタイトルは『ランドックサソリの家族』というものであるが、そこにパスツールとの出会いが描かれている。
引用しよう。
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ある日、あのパスツールが私の家を訪ねてきた ー カイコの病気を調査しているのだというところが彼は繭が何であるのかさえ知らなかった ー パスツールは細部に殴われることなく大局を掴んで考える ー 私も本や人の意見に左右されず事にのぞもう ー 七月後半、クロサソリの雌が背中に子供を乗せていた ー ガラスの飼育箱のラングドックサソリのなかにも子供を背負う母親を見つけた ー サソリは本当に胎生なのか(以下略)
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この部分は、23章の前書きともいえる最初の部分である。
そして、パスツールとの出会いの場面は以下のように描かれている。
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ある日突然、あのバスツールが我が家の呼び鋭を鳴らしたのだった。その後、あっという間にあれほどの名声を獲得することになった、あのパスツールその人が、である。名前だけは私も知っていた。酒石畯の非対称性について論じたこの学者の、見事な研究論文を私は読んでいたからである。そのあと続けて私は滴虫類の発生に関する彼の研究を読んで非常に面白いと思った。
(中略)
パスツールがアヴィニョン方面に来たのは養蚕業視察のためであった。その数年もまえから、養蚕農家はかつて聞いたことも見たこともないような心災に襲われ、いったいどうしたらよいか困惑しきっていた。
(中略)
・・・病気について、少しばかり話し合ったあと、パスツールは出し抜けにこう言った。
「繭というのを見てみたいものですな。私はまだ一度も見たことがないんです。名前だけしか聞いたことががないのでね。手に入れてはもらえないでしょうか」
「結構です。私の家主がちょうど繭の商売をやっておりまして、すぐそこに住んでおりますから、ちょっとお待ちください。すぐお持ちします」
私は急いで隣の家まで行って、ポケットに前をいっぱい詰め込んで帰ってくると、それをパスツールに差し出した。
彼はそれを一個手に取って、指で痛み、編めつめつ、しきりに引っくり返してみたりした。ちょうど、われわれが世界の彼方からもたらされた珍奇な品物を見るときにやるように、いかにも珍しそうにしていたが、耳のそばで振ってみると、
「からから音がする。中に何か入ってるんですか」とひどく驚いて言った。
「ええ、もちろんです」「いったい、なんですか」
「蛹ですよ」
「え?蛹ですって?」
「蛹というのは、まあ言ってみれば一種のミイラみたいなもんですよ。芋虫とか毛虫がチョウやガになるまえにそういう姿に変化するんです」
「どの繭の中にも、そんなものがひとつ入っているんですか」
「もちろんです。蘭というのは、職がを守るために幼虫が続いだんです」
「はあー」
そしてそれ以上何も言わず、パスツールは蘭をポケットにしまい込んだ。
きっとあとでゆっくり、この大発見の代物、つまり蛹を調べるつもりだったのであろう。
この見事なまでの自信に私は打ちのめされた思いであった。幼虫や蘭や蛹や昆虫の変態などということを少しも知らずに、パスツールはカイコを再生させようとやってきたのである。古代ギリシアにおいて、オリンピック競技の選手たちは戦いの場に素裸で現われたという。蚕室で流行している災と戦おうという、この天才的な闘技者パスツールも、同じように裸で戦いに駆けつけたのだ。つまり、危険から救出せねばならぬ昆虫について、ごく基本的な知識すらもちあわせてはいなかったのである。私は呆気にとられてしまった。というよりその自信の凄さに感嘆するばかりだった。
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ファーブルの昆虫記の記述は非常に文学的であり、読者をその内容に惹きつけていく。
このパスツールをオリンピック選手になぞらえていくあたりの表現も見事である。
1910年に開かれた「感謝の会 ファーブルの日」で、ロマン・ロラン、メーテルリンク、エドモン・ロスタンなど名だたる文豪が参加し、彼に対してノーベル文学賞を与えるべきとの声があった、というのもうなずける気がするではないか。
「あなたの酒蔵を見せてくれませんか」
そしてもう一つ、ファーブルにとってショッキングなことが起こる。
再び引用する。
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そしてそのあとで起きたことでも私は、それに劣らず衝撃を受けた。当時パスツールはカイコの病気のほかにもうひとつ、加熱することによって葡萄酒の品質を向上させるという問題に没頭していた。彼はいきなり話題を変えて、
「あなたの酒蔵を見せてくれませんか」と言ったのである。
この人に私の酒蔵を見せるだって?この私の貧しい酒蔵を見せろというのか!その当時、教師の安月給では、ほんのわずかでも葡萄酒を飲むなんて贅波はとても無理だった。だから私は、無糖ひと掘みとすりおろしたリンゴを壷の中で発酵させて、まがい物の安酒を造っていたのだ。それなのに、私の酒蔵!私の酒蔵を見せろだなんて!年代別、銘柄別にレッテルを貼って積み上げられた、埃の積もったワインの機と選とを見せられるのであったら、どうして隠すことがあるだろう。だが、私の酒蔵を見せろだなんて!
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当時ワインの発酵についてのテストをしていたパスツールとしては、自分の関心事として無邪気に質問したのであろう。
しかし、こういったかみあわない状況が繰り広げられたにもかかわらず、ファーブルはパスツールのことを認めていた模様である。
つまり、研究の対象物に関して、パスツールのように何も知らずに臨んだほうがいい、ということもある、ということにファーブルは気づいたのである。
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酒蔵などという邪魔が入って、気まずくなるというひと幕もあったけれど、私はあのいっそ晴れやかな、と言いたいようなパスツールの自信には衝撃を受けた。
彼は昆虫の変態についてまったく知らなかった。繭なるものは生まれて初めて見た。その繭の中には、将来ガ(蛾)になるものの下書きともいうべき何ものかが入っていると、たったいま知ったのだ。この南仏地方でならば、小学生でも知っていることを彼は知らなかった。それなのに、昆虫学にはまったく不案内なために、無邪気な質問をしてあんなに私を啞然とさせた人物が、その後、養蚕所の衛生に一大変革をもたらすことになったのである。同様に、パスツールはその後、医学と一般衛生学とにおいても、革命を起こすことになるのだ。
彼の武器は、細かいことに囚われずに大局を掴むその考え方なのだ。昆虫の変態や幼虫や若虫や蘭や囲蛹や蛹その他、昆虫学に関する無数の細かい秘密なんか彼にとってはどうでもいいのである。パスツールの場合、問題を解決するにはそんなことはむしろ一切知らないでいるほうがかえってよかったのかもしれない。
知らないために一層それに囚われない発想ができ、大胆に考え方を飛躍させることができるようになる。そして発想の働きは、すでに知っているその知識の枠を超えて、より自由になるのである。
(中略)
私は今、すんでのことでその年を無駄に過ごすところであった。本で読んだことをうっかり信じじたために、私はラングドックサソリの子供が九月以前に生まれるとは予期していなかったのだが、その誕生の時期がいきなり七月に訪れたのだ。
(中略)
ああ、まったく!パスツールが蛹のことなど知らずにいたのは正しかったのだ。
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本を信じて観察をふいにしてしまいそうになったファーブルは、改めてパスツールの何も知らずに研究対象に取り組む姿勢を評価した、ということだろう。
そして、この後、パスツールはこの繭の病気の問題を見事解決することになるのである。
パスツールもファーブルも万博で受賞
このパスツールは2年後の1867年第2回パリ万博で、ワインの低温殺菌法でグランプリを獲得することになる。また、何とこの極貧の自然観察家だったファーブルも1878年第3回パリ万博で、一連の業績に対して銀メダルを授与されることになるのである。
時にファーブル54歳。『昆虫記』第1巻が出版される前年であった。
ファーブルはその後も研究を続け、人生後半は裕福な生活を享受できるようになり、さまざまな栄誉に浴しながら91歳まで生き続けることになるのである。