<5>「フィンランドのNATO加盟」のニュースに万博を想う②

パリ万博
1900年パリ万博のフィンランド館 Finnish Pavilion, 1900 Paris World Exposition

前回は、フィンランドのNATO加盟のニュースから、ロシアのウクライナ侵攻の2030年万博への影響、また、2030年万博の立候補国の状況をご紹介した。

実は、フィンランドは今回に限らず、以前からロシアの圧力を受けてきた。
それがよくわかる万博がある。
1900年パリ万博である。

19世紀最大規模を誇った1900年パリ万博

1900年パリ万博(1900年4月15日〜11月12日)といえば、19世紀の最後を飾る、19世紀後半に行われた5回のパリ万博でも一番大きな規模を誇った、アール・ヌーヴォーが流行した万博である。「19世紀の評価」(Evaluation of a Century)というテーマを掲げていた。

5000万人以上を集めたこの巨大な万博では、第2回目の近代オリンピックが開催されていた。

また、この万博を契機にグラン・パレ、プティ・パレという今も残る2つの美術館が建設され、金色の装飾が美しいアレクサンドル3世橋もこのときに作られた。

そのほか、この万博にあわせてヴィクトール・ラルーがオルセー駅を設計し、1900年7月に完成している。当時はオルレアン新駅と呼ばれていた。この駅はその駅舎を再利用する形で、1986年に「オルセー美術館」として生まれ変わっている。

また、このオルレアン新駅とポルト・ド・ヴァンセンヌを結んだ「地下鉄1号線」も万博が始まって約3ヶ月たった7月14日に開通している。

会場も巨大で、パリの主会場とヴァンセンヌ会場に分かれており、パリの主会場はアンバリッド、シャン・ド・マルス、トロカデロ、そしてその周辺のセーヌ河岸までにいたっていた。

1900年パリ万博の「フィンランド館」

その会場の中で、セーヌ川の南サイドに外国パビリオンゾーンがあった。

その外国パビリオンゾーンの中で、セーヌ川から南に向かって、左にノルウェー館、右にドイツ館という2つの大型パビリオンに挟まれるようにして、一本奥の通り沿いに見えるのが「フィンランド館」である。
「フィンランド館」は、メインパビリオンが並ぶセーヌ川沿いのRue des Nationsではなく、その一本内側のQuay D’Orsayという通りに沿って建っていた。セーヌ川から見ると、向かって左にルクセンブルク館、右にブルガリア館という2つのパビリオンに挟まれていた。

この、高い評価をうけたパビリオンの設計を手掛けたのが、エリエル・サーリネン(1873 – 1950)という人物だった。

サーリネンはフィンランド生まれの建築家である。ヘルシンキ大学で建築を学んでいた時、学友二人と建築設計事務所「ゲゼリウス、リンドグレン、サーリネン(GLS建築設計事務所)」を立ち上げる。そして、彼らが設計した1900年パリ万博のための「フィンランド館」の案がコンペで採用されることになったのだ。

当時、フィンランドは、ロシアの支配下にあり、ロシアの一部とみなされていた。

しかし、フィンランドではロシアからの独立を求める、のちに「ナショナル・ロマンティシズム」と呼ばれる民族文化運動が盛んとなっていた。

フィンランド館を設計したサーリネン、そして、その一生の友人であった、作曲家のジャン・シベルウス(1865 – 1957)、画家のアクセリ・ガレン=カレラ(1865 – 1931)もその運動の熱心な推進者だった。

シベリウスは帝政ロシアを闇夜にたとえ、フィンランド独立運動を象徴する「フィンランディア」を作曲している。これは、フィンランドの民俗叙事詩「カレワラ」を題材にした歴史劇「カレワラ」楽曲の終章として作曲したものであるという。

ちなみに「カレワラ」とは、「カレワという部族の勇士たちの地」、という意味で、ある医師によって民間説話からまとめられ、1835年に出版された。天地創造からフィンランドにキリスト教が伝来するまでの、いわばフィンランドの原点を示す作品といえる。

この作品が、最終的には1917年にフィンランドをロシアから独立に導く大きな文化的基盤となったのだ。

アクセリ・ガレン=カレラの参画

そして、一方のアクセリ・ガレン=カレラはサーリネンとともにフィンランド館に参加することになるが、その時のコンセプトとなったのもこの「カレワラ」的なフィンランド独自文化の要素だった。

フィンランド人の、なんとかロシアの支配下から独立したい、という願いのこもったパビリオンになっていたといってもいいだろう。

フィンランド館は延床面積約365㎡の小ぶりなパビリオンだった。2005年「愛・地球博」の最小パビリオン単位の1モジュールのパビリオン面積が324㎡(18m× 18m)だったから、ほぼ同じくらいの規模という感じだ。

しかし、このパビリオンは高い評価を受け、メディア等でも、フィンランドの独立を支持する論調も増えたという。

ロシアからの圧力

実は、このフィンランド館、ロシアからの圧力で、パビリオンのゲートの左右に「ロシアセクション」と表示するよう、ロシアサイドから要求されたりしていたらしい。

そこで、フィンランドサイドは、そのサインをリタッチできるような仕掛けにして、ロシアからの統制に対抗した。

また「フィンランド・パビリオン」のサインだけを写真で流通させるなどのメディア対策もとったという。

さらに、例えば、この投稿のアイキャッチ画像に使っている、一番流通している思われるフィンランド・パビリオンの全体写真をみると、塔の最上部が見えないようなアングルになっている。
実は、この塔の最上部には、「双頭の鷲」が設置されていたらしい。
言うまでもなく「双頭の鷲」とはロシアの国章であり、これはロシアの圧力によるものだった。
フィンランドサイドはそれをあえて画角から外した写真をメディアに流通させたのだ。

フィンランド館の入り口

結果、このパビリオンは高い評価を受け、グランプリを獲得し(もっとも規定により、この賞はロシアに与えられた)、フィンランドはその17年後にロシアからの独立を達成することになるのだ。また、アクセリ・ガレン=カレラがデザインした、「イーリスの間」に展示された「イーリスチェア」等の家具や、テキスタイル等も高い評価を受け、これらの展示物はパリ万博で複数の賞を獲得した。また、アクセリ・ガレン=カレラ個人にも万博で金メダルが授与されることになった。

イーリスの間

フィンランドと万博

ちなみに、フィンランドは1937年7月3日にBIEに加盟している。

BIEのホームページによると、

「 フィンランドは 1937 年に BIE に加盟し、1 年後に航空宇宙(Aerospace)をテーマに組織された特別博覧会 、1938年 ヘルシンキ万博(Specialised Expo 1938 in Helsinki)を主催しました。 フィンランドは特別博覧会や万国博覧会に積極的に参加し続けており、2010 年上海万博においては、フィンランドのパビリオンはパビリオン・デザイン部門で金賞を受賞しています。」

とある。

フィンランド館は、2010年上海万博後も、2017年アスタナ万博で金賞、2020年ドバイ万博では銀賞を獲得しており、2025年大阪・関西万博など、今後の万博でのフィンランドの出展も見逃せないところである。(2025年大阪・関西万博であるが、2023年3月24日時点で、まだフィンランドは参加表明していない。一方ロシアは参加表明をしている。)

また、上記BIEホームページの「1938年ヘルシンキ万博」であるが、BIEの資料によると、5月14日から5月22日(つまりたったの9日間!)に開催された、25カ国参加の非常に小規模の万博だったようだ。

さて、フィンランド館を設計した建築家エリエル・サーリネンだが、彼はその後アメリカに渡り、その息子のエーロ・サーリネンも万博で活躍することになるのだが、その話はまた次の機会に譲ろう。

タイトルとURLをコピーしました