「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展
前回<28>では、「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展に行った話をしようとしつつ、結局会場となっている東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)のアール・デコについてご紹介した。
さて、今回は、いよいよフィンランド・グラスアートについてご紹介していきたい。
フィンランドのグラスアートといえば、イッタラが有名である。
昨年(2022年)9月〜11月には、東京・渋谷のBunkamuraで「イッタラ展 フィンランドガラスのきらめき」が開催された。
筆者も助手0号とともに訪れてみたが、その洗練されたデザインに感銘を受けるとともに、イッタラのデザイナーであったティモ・サルパネヴァが、1967年モントリオール万博のフィンランド・セクションの会場デザインを手がけていたことなどがわかり、やはりイッタラも万博に関係していた、ということを改めて発見した。
この展覧会は、東京・渋谷のBunkamuraで開催されたあと、今年(2023年)4月〜6月まで島根県立石見美術館、その後、現在7月〜9月まで長崎県美術館で開催されている。
そして、今回の「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展である。
今回はいろいろなフィンランド・グラスアートのデザイナーの作品の紹介が総合的になされている。
しかも、そのいくつかの作品は、万博に出展されたり、そこで賞を取ったりしている。また、「ミラノ・トリエンナーレ」に出展され、賞をとったものも多い。
フィンランドのグラスアートにとって、この「ミラノ・トリエンナーレ」に出展し、そこで評価されたという事実は、その国際的な発展に大きな役割を果たしたようだ。
この「ミラノ・トリエンナーレ」とはどんなものだろうか。
一見、万博とは関係がなさそうだが、実は、この「ミラノ・トリエンナーレ」、あのBIE(博覧会国際事務局)が認可しているBIEの公式催事なのである。
BIEが管掌するEXPOの種類
実は、現在BIEが管掌しているものとしては次の4つがある。
World Expo(International Registered Exhibition =登録博)
5年に一度の大規模な万博。会期は6ヶ月以内。2005年「愛・地球博」、2010年上海万博、2015年ミラノ万博、2020年(コロナ禍の影響で実際の開催は2021年)ドバイ万博、2025年大阪・関西万博がこれにあたる。
Specialised Expo (International Recognised Exhibition =認定博)
2つの登録博の間に1回だけ開催可能な特別博。特定のテーマを扱うもので、会場面積は25ヘクタール以下、会期は3ヶ月以内、という規定がある。
Horticultural Expo (International Horticultural Exhibition=国際園芸博覧会)
AIPH(The International Association of Horticultural Producers 国際園芸家協会)が公認した「世界園芸博覧会(A1カテゴリーの花博)」をBIEが公認してもよいことになっているもので、「少なくとも前の花博と2年の間隔が空いていて、前回の花博とは違う国での開催であること、同じ国では少なくとも10年の間隔が空いていること」が条件となっている。また、会期は6カ月以内、会場面積に上限はない、とされている。現在、横浜市が2027年花博開催を推進している。過去には1990年大阪花博などがある。
Triennale di Milano(The Milan Triennial Exhibition of Decorative Arts and Modern Architecture《装飾芸術と現代建築のミラノ・トリエンナーレ博覧会》)
1928年に成立したBIE条約の中で、BIEが公認することが認められているものであり、「ミラノ・トリエンナーレ・インスティチュート」が主催するもの。会期は6カ月以内、歴史的にミラノのドウォーモ近くの「Palazzo dell’Arte(芸術王宮)」を会場として、「トリエンナーレ」の名のとおり原則3年に1度おこなわれているものである。
上記最後の「Triennale di Milano」が通称「ミラノ・トリエンナーレ」である。
BIEが公認した最初の「ミラノ・トリエンナーレ」は1933年のものである。
しかし、この1933年ミラノ・トリエンナーレは、ミラノ・トリエンナーレとしては、第1回目というわけではなく、じつは第5回目のものであった。
このイベントは、最初はビエンナーレ(2年に一回開催されるもの)として1923年に、ミラノの北東約15kmに位置する都市モンツァで「装飾芸術国際展示会」として始まり、1925年、1927年の開催を経て、1930年からはトリエンナーレとなった。ミラノに移ったのは第5回の1933年からである。そして、フィンランドが公式に初めて参加したのもこの1933年であった。
この第5回ミラノ・トリエンナーレは、1933年5月10日から10月31日まで開催された。
その後は、1936年、1940年、1947年、1951年、1954年、1957年というふうに、戦争の影響等もあり、正確に3年ごとではないにせよ、継続して開催され、現在に至っている。もっとも最近開催されたのは2022年7月15日〜12月11日である。
「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展の構成
この展覧会は、第1章から第3章までの3つのセクションから構成されている。
第1章 フィンランド・グラスアートの台頭
フィンランドの歴史を簡単にひもとくと、フィンランドは1155年以降、スウェーデン王国の支配下にあった。その後、1809年にはロシアへ併合され、1917年ロシア革命のときにフィンランドとして独立した。
今回の展覧会図録によると、そもそもフィンランドで本格的にガラス製造が始まったのは18世紀半ばのことだということだ。スウェーデン王国の支配下にあった時代である。
イッタラ(1881-)などの老舗ガラス製作所が設立されたのは、1809年のロシア併合以降である。
1917年にロシアから独立を果たした後も、フィンランドではスウェーデンの影響が濃厚で、フィンランドらしさが芽生えたのは1930年代に入ってから、ということである。
そして、その頃、ミラノ・トリエンナーレや万博などの国際的な展示会への参加機会が増え、フィンランド独自のデザインが作り出されることになった。
そのフィンランド・グラスアートの台頭期をリードした代表的なデザイナーがアルヴァ・アアルト(1898-1976)、アイノ・アアルト(1894-1949)夫妻、そして、グンネル・ニューマン(1909-1948)だった。
アルヴァ & アイノ・アアルト
アアルト夫妻は、アルヴァもアイノもともに建築家でもあった。多才な夫妻だったのである。
アルヴァは1933年ミラノ・トリエンナーレで金賞を受賞しているが、じつはそれは家具のデザインによるものだった。
また、アアルト夫妻は1937年パリ万博ではフィンランド館の設計も行っているのである。
今回の展覧会では、1937年パリ万博に出展された、アルヴァ・アアルト作の『アアルト・ヴェース』(通称『サヴォイ』)という作品が展示されている。このシリーズは、昨年のイッタラ展にも登場していた、アルヴァ・アアルトのガラス作品を代表する花器である。この独特の有機的なデザインは、母国フィンランドの湖からインスピレーションを得たのではないかといわれている。
また、アルヴァ&アイノ・アアルトの『アアルト・フラワー』という作品も展示されている。
これは、1939年ニューヨーク万博のフィンランド館のために夫妻が協働でデザインしたものということだ。さらに、この時のフィンランド館の設計および展示デザインもアルヴァ・アアルトが手がけている。
この、『アアルト・フラワー』は、前回<28>話でご紹介した、庭園美術館の「大食堂」の暖炉の上に展示されており、その背面の絵画はアンリ・ラパン作によるものである。
ラパンの絵にも花がちりばめられており、背景とこの「フラワー」というモチーフを合わせて展示されており、展覧会企画者の意図を感じることができる。
グンネル・ニューマン
つぎは、グンネル・ニューマンの作品が展示されている。
彼女は家具デザイナーであり、照明デザイナーでもあった。乳がんを患い、39歳の若さで亡くなった。
1933年ミラノ・トリエンナーレでは、テキスタイルで銅賞を受賞している。
万博関連をみていくと、今回の展覧会では、1937年パリ万博のためにデザインされた器『花輪』、そして1937年パリ万博へ出品され、金賞を受賞した『賢明な乙女たち』という作品が展示されている。
また、同じく1937年パリ万博出品作品として『魚』、『家族』という作品も展示されている。
ニューマンは、この1937年パリ万博では、家具とランプでも銀賞を受賞している。なかなか多才な人である。
そして 今回、ミラノ・トリエンナーレ出品作も展示されている。
『ストリーマー』という作品は1951年のミラノ・トリエンナーレに出品されたものである。
見ていただければわかるように、なかなかモダンな洗練された作品である。
第2章 黄金期の巨匠たち
展覧会図録の第2章の最初の解説には次のようにある。
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…かねてから海外でも注目されつつあった高級志向の強い「アートグラス」は、国際的な認知と外貨の双方を獲得できるため、ミラノ・トリエンナーレをはじめとする国際展示会への出品の機会が増えていった。特に1951年、54年、57年のミラノ・トリエンナーレにおいて、フィンランドのガラス作品は国際的な名声を博し、デザイン大国フィンランドとの評価を確固たるものにしたのである。(太字は筆者による、以下同)
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やはり、フィンランドのデザイン大国というブランディングは、ミラノ・トリエンナーレなどの国際展示会が果たした役割が大きかったことがわかる。
カイ・フランク
このセクションでは、まず、カイ・フランク(1911-1989)が取り上げられている。
「フィンランド・デザインの良心」として広く知られている。
なぜ「良心」なのか?
昨年Bunkamuraで開催された「イッタラ展 フィンランドガラスのきらめき」の図録には次のようにある。
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…フランクはさらに、節制、エコロジー、平等の信念から、日用品の数を最小限に抑えることにより、製品のサステナビリティーとライフサイクルに注目させた。フランクはすでに1967年に「素材の研究は、再利用可能な素材の製造に焦点を移すべきだ」と発言している。家庭の日用品の数を最小限に抑えることを目指し、天然資源の浪費に対する大きな懸念を、その仕事を通して一貫して示し続けた。
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また、カイ・フランクはこうも言っている。(同図録より)
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「同じ食器でいろいろな使い方ができるのなら、食器をそれほどたくさんもつ必要はない」
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素晴らしい考え方である。この部分だけを読んでも、読者の皆さんもどうしてカイ・フランクが「フィンランド・デザインの良心」と呼ばれたかが納得できるのではないだろうか。
今回の展覧会では、1954年ミラノ・トリエンナーレ出品デザインである『シャボン玉』、1954年ミラノ・トリエンナーレで名誉賞を受賞した『ヤマシギ』、1957年ミラノ・トリエンナーレ出品作である『クレムリンの鐘』といった作品が展示されている。
実は、カイ・フランクは一度日本を訪れている。
1956年9月、フランクは日本に1ヶ月半滞在し、その間、濱田庄司、北大路魯山人、河井寛次郎などの日本の著名な陶芸家と会ったり、名古屋のノリタケ陶磁器工場を訪問したりしたのである。
タピオ・ヴィルッカラ
次はタピオ・ヴィルッカラ(1915-1985)である。
今回の展覧会図録によると
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(タピオ・ヴィルッカラは)1951年、54年のミラノ・トリエンナーレではフィンランド館の展示デザインも手がけ、作品と展示の双方でグランプリを受賞し、デザインにおけるその多彩ぶりは国際的に評価されることとなった。
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とある。
今回は『ヘラジカ』という作品が展示されている。図録解説によると「北欧では『森の王』と呼ばれる最大級の鹿であるヘラジカは、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』にも登場し、造形のモチーフにも多く取り入れられてきた。」とある。
この『カレワラ』については、<5>「フィンランドのNATO加盟」のニュースに万博を想う②で書いた通り、フィンランドのアイデンティティの元になったといってもよい物語である。
その『カレワラ』に登場した『ヘラジカ』をモチーフにした作品である。
その他『氷山』という作品は、1951年ミラノ・トリエンナーレのためにその前年にデザインされたものであり、その名も『東京』という作品は1954年ミラノ・トリエンナーレ出品作品である。ちなみに、図録解説によると、「《東京》というタイトルは日本との何らかの繋がりを暗示させるが、今のところ関係性が判明していない」ということだ。
しかし面白いデザインの作品である。しかもモダンである。
ちなみに、図録の後ろの方の年表によると、この1954年ミラノ・トリエンナーレでは、タピオ・ヴィルッカラが「展示デザイン」、「ガラス」、「木彫」でグランプリを受賞とある。
また、1958年ブリュッセル万博では「タピオ・ヴィルッカラ『未来の都市』をデザインする」、とある。ミラノ・トリエンナーレだけでなく万博でも活躍したことがうかがえる。
さらに、『アートグラス』という作品の解説には、「ヴィルッカラは1954年のミラノ・トリエンナーレをきっかけに、ニューヨークの著名なインダストリアル・デザイナーであるレイモンド・ローウィの招待を受けて訪米し、1955年から56年にはローウィのデザイン事務所に帰属する機会を得た」とある。
レイモンド・ローウィ(1893~1986)といえば、日本でも、煙草の「ピース」のデザインを手がけたことで知られるフランス出身の人物である。
彼は当時の流線型のデザインをたくみに取り入れ、大胆なデザインを「口紅から機関車まで」あらゆるジャンルで展開したデザイナーで、たとえば、お菓子の不二家のロゴマーク、アサヒビールのラベル、煙草「ラッキー・ストライク」のパッケージ、シェル石油のロゴマークなど、われわれにもなじみの深いデザインを手がけている。
そして、1939/40年ニューヨーク万博においては、ローウィが手がけた流線型デザインの蒸気機関車が会場を時速60マイル(約96キロ)で走った。この機関車「6100」は140フィート(約42・7メートル)の長さと、526トンの重量を誇るペンシルヴァニア鉄道最大のものであり、この万博における屋外展示のハイライトの一つであった。
そのようなニューヨーク万博で活躍して名声を得ていたレイモンド・ローウィの事務所にヴィルッカラは働いていた、ということになる。
また、ヴィルッカラの『パーダルの氷』という作品も今回展示されているが、この作品は1960年ミラノ・トリエンナーレのためにデザインされたものということだ。
ティモ・サルパネヴァ
次は、ティモ・サルパネヴァ(1926-2006)である。
図録解説には「(ティモ・サルパネヴァが)1954年、57年のミラノ・トリエンナーレで発表したアートグラスがグランプリを受賞」とある。
また、イッタラのロゴである「i」のデザインは彼がデザインしたもの、ということだ。
今回の展覧会では、1954年ミラノ・トリエンナーレ出品作『ランセットI』、同じく1954年ミラノ・トリエンナーレ出品作『蘭』、また、1954年、57年のミラノ・トリエンナーレ出品作『カヤック』が出品されている。この『カヤック』は1954年のミラノ・トリエンナーレでグランプリを受賞した作品である。今回の展覧会図録の表紙デザインにも使用されている。
さらに、『サンボール』、『森の太陽』という作品は、1957年ミラノ・トリエンナーレに出品され、ともにグランプリを受賞している。
また、今回は『フィンランディア/情熱』という作品も展示されている。図録によると「1967年のモントリオール万博には、このシリーズを応用した585パーツからなるインスタレーション作品《叢氷》が出品された。」とある。
また、この1967年モントリオール万博でのフィンランド・セクションの会場デザインもティモ・サルパネヴァが手がけている。
オイヴァ・トイッカ
そして次がオイヴァ・トイッカ(1931-2019)である。
彼の作品はなかなかユニークである。
その中で『ポンポン・ユニークピース』という作品は1968年ミラノ・トリエンナーレのためにデザインされたという。図録によると「しかしこの展覧会は、イタリア国家当局に対する学生のデモによって、ほとんど即座に閉会せざるを得なかったため、翌年のロンドンのヒール百貨店で開かれた展覧会が、事実上初のお披露目となった」とある。
BIEのホームページで確認すると、確かに1968年のミラノ・トリエンナーレの会期は1968年6月23日から7月28日、とある。1ヶ月ちょっとで閉会せざるを得なかったのであろう。
第3章 フィンランド・グラスアートの今
このセクションでは、現代作家の作品が紹介されている。
なかなか斬新なデザインの作品が多く圧倒される。
が、このセクションは新しい作品が多く、万博やミラノ・トリエンナーレに関連した作品というものは見つけられなかった。
ところで、今は、フィンランドの老舗ガラス製作所で、名実ともに生産を続けているのは、イッタラのみ、ということである。
実は、イッタラの歴史はM&Aの歴史でもあった。フィンランドに存在したいくつかの老舗ガラス工場は合併したり、同じオーナーのもとに組み込まれたり、紆余曲折があった。
最近では2007年のフィスカース社に買収された、というニュースがあった。
このフィスカース社は、フィンランドのヘルシンキに本社をおく、1649年(!)に設立された会社である。
このフィスカースの傘下には、イッタラのほか、ウェッジウッド、ロイヤルコペンハーゲン、ウォーターフォードなどが組み込まれているのである。
フィンランドと万博
ちなみに、初めてフィンランドが万博に出展した1900年パリ万博でのフィンランド館については、<5>「フィンランドのNATO加盟」のニュースに万博を想う②で触れた。
また、フィンランドで開催された万博である、1938年ヘルシンキ万博についても、同じく<5>で軽く触れたのでご参照いただきたい。
このように、今回の「フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン」展では、万博やミラノ・トリエンナーレの話題が満載であり、なかなか内容的にもビジーだった。
読者も、なぜ筆者が、<28>東京都庭園美術館のアール・デコと2つに分けてご紹介したかおわかりいただけたのではないだろうか。
今回の展覧会は、通常の万博だけではなく、ミラノ・トリエンナーレというBIEの認可する4つのイベントのうちの一種を再認識できる貴重な機会でもある。
しかも、「旧朝香宮邸」に存在する、1925年アール・デコ博由来の、様々なアール・デコ作品も楽しめる。
是非訪問されることをお勧めしたい。