<106>「ハニワと土偶の近代」展と「日本萬国博覧會」

1940 Tokyo
絵葉害「八紘の基柱」1940年 (現在の「平和の塔」)

東京国立近代美術館にて開催中の「ハニワと土偶の近代」展

現在、東京国立近代美術館にて「ハニワと土偶の近代」展が開催されている。
開催期間は2024年10月1日〜12月22日。

現在(2024年10月16日〜12月8日)、東京国立博物館でも特別展「はにわ」が開催されており、突然ハニワが注目を受けている感じだ。

「ハニワと土偶の近代」展 サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

「ハニワと土偶の近代」展 サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

「ハニワと土偶の近代」展 サインとハニワ
photo©️Kyushima Nobuaki

じつは、ハニワは筆者にとっては子供の頃から馴染みの深いものであった。
宮崎市で育った筆者は、遠足といえば「平和台公園」というところが定番の一つであった。
もちろんメインは「平和の塔」だが、その周辺には「はにわ園」というハニワがたくさん立っている公園があった。

また、少し足を伸ばせば、西都原古墳群もあり、そこからもハニワは出土しており、遠い昔に想いを馳せることも多かった。

さて、今回の展覧会では、縄文時代の土偶、古墳時代のハニワが近代になってどのように日本で取り上げられてきたかが示されている。

明治以降、日本が国際化していく中で、日本(日本人)の原点をどこに求めるか、という模索の中に、土偶やハニワが注目を集めたということであろう。

1970年大阪万博『太陽の塔』で有名な岡本太郎(1911~1996)が、縄文にそれを求めたように、なるほど縄文、古墳時代に日本の原点を求めるのはわかりやすいし、世界にも理解を得られやすいだろう。

この展覧会でも後半に岡本太郎も登場する。

岡本太郎・谷川徹三・野間清六
「座談会 現代人のための博物館」
『藝術新潮』第3巻第6号
1952年6月

岡本太郎
「縄文土器論」
『みづゑ」第558号、1952年2月

岡本太郎『日本の伝統』
1956年 9月

岡本太郎『犬の植木鉢』
1954年

岡本太郎『顏』
1952年

岡本太郎『顏』
1952年

博覧会でのハニワの出展

そういうコンテクストのなか、1893年シカゴ万博でも、日本出展の中にハニワは含まれていた。
今回の展覧会でもその写真が展示されている。

そして博覧会のパノラマ画やジオラマを得意としていた二世五姓田芳柳(ごせだほうりゅう 1864-1943)が農商務省の委嘱を受けて、日本の考古遺物や遺跡を描いた水彩画を出品した。

1983年シカゴ万博「人類衛生館内日本部」展示風景

閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵
(1893年シカゴ万博)

また、ロンドン・ホワイトシティ区で開催された1910年日英博覧会のグラフ誌『代表的日本』の表紙にも、富士山とハニワのイラストが描かれている。
ハニワは富士山とならんで「代表的日本」(日本の象徴)となっていたのである。

「日英博覧會紀念出版 代表的日本』
第2巻第11号グラヒック特別増刊
1910年5月

この博覧会で、ふたたび二世五姓田芳柳が登場する。
ジオラマ「日本古代より現代に至る風俗変遷図」9題(延長60間)を制作、名誉褒状を受けたのである。

日英博覧会 歴史出品
《第一区 上古 植民拓地》
「日英博覧会事務局報告」1912年
背景画を二世五姓田芳柳が担当

『圓形古墳図』二世 五姓田芳柳 大正時代

ちなみに万博関連でいうと、この二世五姓田芳柳は1926年フィラデルフィア万博にも「関東大震災赤十字社救護活動図」を出品している。
1923年9月1日に発生した関東大震災と赤十字社をテーマとしたものである。

ちなみにこの日本赤十字社1873年ウィーン万博で事務総長を務めた佐野常民(1822~1902)が設立したものである。

1867年パリ万博を佐賀藩の代表として訪れた佐野が、そのパリ万博にパビリオンを出展していた「国際赤十字」のパビリオンを「発見」し、その結果、日本でも創設したものであった。
日本赤十字社も万博のおかげでできたともいえるのである。

皇紀2600年記念行事

この展覧会でも紹介されているが、戦前、「皇紀2600年」を祝おうという企画は以前からあった。

もっといえば、それ以前にも「皇紀2550年」を記念して1890年に万博を開催しよう、という案もあった。
西郷隆盛の弟、西郷従道が1885年に政府に提出した案がそれである。
しかし、このプランは財政難のため頓挫する。

ちなみに、この「皇紀」とは、神武天皇が奈良県に橿原宮を定めて、初代天皇として即位してからの年数である。
「皇紀2600年」とは、1940年、昭和15年がその年にあたる。

その5年前の1935年には「紀元二千六百年祝典準備委員会」が発足した。
政府は、橿原神宮の整備、東京オリンピック招致、万国博覧会の開催などを計画した。

紀元2600年記念絵葉書等

「平和の塔」も「皇紀2600年記念行事」の一つ

そしてこのビッグプロジェクトのひとつが、「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」の建設だった。

これが冒頭述べた、宮崎市の平和台公園にある「平和の塔」である。

この塔には今も「八紘一宇」と書かれている。

筆者の父母の時代は「八紘一宇の塔」と呼んでいたらしい。

絵葉害「八紘の基柱」1940年
(現在の「平和の塔」)

絵葉害「八紘の基柱」1940年

作者は日名子 実三(ひなご じつぞう、1892 – 1945)という彫刻家であり、彼は八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。

皇紀2600年(1940年)に開催予定だった「日本萬国博覧會」

しかし、この頃は第二次世界大戦へと向かうきな臭い時代だった。

1931年満州事変、1933年国際連盟脱退、1937年日中戦争勃発、1938年国家総動員法、1940年日独伊三国軍事同盟、1941年太平洋戦争と、平和イベントであるオリンピックや万博どころではない時代になっていった。

結局1938年7月15日の閣議で「オリンピック東京大会を中止し、日本萬国博覧會を延期する」という決定が下されたのであった。

「延期」というが、実質上は中止だった。

しかし、戦後実現した1970年大阪万博も正式名称は「日本万国博覧会」
1940年万博用に発行された入場券も使えたのである。(ちなみに「愛・地球博」でも使えた。)
そういう意味では「延期」が「実現した」といってもいいのかもしれない。
(もっとも開催地は東京から大阪に移動した。)

この通称「幻の万博」については、また別途詳しくご紹介することにしよう。

戦前のこの独特の雰囲気の時代、その頃に企画された万博のことを考えながらこの展覧会を味わった1日であった。

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