日本橋の丸善へ
その日は昔の友人たちと日本橋のレストランで食事することになっていた。
そこで早目に日本橋近辺に到着し、書店の丸善を偵察することにした。
あいかわらず新刊図書をはじめ多くのジャンルの書籍が充実している。
残念ながら、拙著『万博100の物語』は在庫切れのようだ。。。
そんなことをチェックしながら、ぶらぶらしていると建築のコーナーに出くわした。
そこで見つけたのが
という本である。
磯崎新氏と万博
以前も書いたが磯崎新氏(1931-2022)には個人的にお仕事等でお世話になった関係で、このお名前に遭遇するとつい手に取ってしまう。
もともと磯崎さんとは「磯崎フォーラム」と称して浅田彰さんなどとともに定期的に5〜6人で食事をご一緒していたが、その際に1970年大阪万博時、そして1990年花博時の磯崎さんのプロジェクトについても直接お話をお伺いしたことがある。
1970年大阪万博時の「デク」、「デメ」
1970年大阪万博時に磯崎さんが手がけられたのは、「お祭り広場」に設置された、「デク」、「デメ」という2体の大型ロボットのプロジェクトだった。
磯崎さんは丹下健三氏のもとで「お祭り広場」の設計に協力していたが、磯崎さんが設計したのは、なんと建物やスペースではなく「ロボット」。
尋常ならざる発想力である。
これらのロボットは照明、音響、演出などをサポートするためのものだったという。
1990年花博時は総合プロデューサー
その後磯崎さんは1990年の「花博」(「国際花と緑の博覧会」)でも小松左京氏、泉眞也氏とともに総合プロデューサーをつとめられ、また、建築家としては「国際展示水の館」、「国際陳列館」などを設計された。
そんな磯崎さんが語る「モダニズム」には万博関連の情報もあるに違いない。
そんな思いでこの本を手に取ることになった。
『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』(六曜社)
この本の中で筆者の目を引いたのは
という章である。
前川國男(1905-1986)と坂倉準三(1901-1969)といえば、二人とも海外の万博での日本館に関与していた人物である。
海外での万博の日本館の設計といえば、何度かご紹介した内田祥三(1885-1972)がいる。
1939/40年サンフランシスコ万博、同じく1939/40年ニューヨーク万博の「日本館」を設計した。(<44>話)
坂倉準三と1937年パリ万博
坂倉準三は
でご紹介したように1937年パリ万博の日本パビリオンを設計した。
ちょっと復習を兼ねて引用する。
*
この万博は1937年5月25日~11月25日まで開催された。
英語名称はInternational Exposition of Arts and Technology in modern lifeというものであり、
テーマは「現代生活の中の美術と技術」。
参加国数は45。3104万人という莫大な入場者を集めた。
この万博ではパブロ・ピカソがスペイン共和国パビリオンに『ゲルニカ』を、ジュアン・ミロは『刈り入れ人』を展示したことで有名である。
その他、プティ・パレにおいて、1937年パリ万博の一環として6月から10月まで開催された「独立美術の巨匠たち1895-1937展」(「巨匠展」)に、ピカソは『アヴィニョンの娘たち』を、アンリ・マティスは『夢』『赤いキュロットのオダリスク』(ともに2023年に東京都美術館で開催された「マティス展」に出展された)などを出展した。
日本からはミキモトが『矢車』という帯留めを出展したのもこの万博である。
トロカデロ宮がたっていた場所にシャイヨー宮が建てられ、エッフェル塔をはさんで、ドイツパビリオンとソ連パビリオンがその高さを競うように両側にたっていた。
そんな中、日本パビリオンの設計は坂倉準三に任されたのである。
そのデザインは、写真をみて確認できるように、これまでの日本パビリオンのイメージ(神社、仏閣のような)を全く感じさせないモダンなデザインだった。
すでに1925年パリ「アール・デコ博」はその12年前に開催され、坂倉が師事したル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー・パビリオン(新精神館)」が話題となっていた。
しかし、この1925年段階では、まだ日本パビリオンは従来通り、日本家屋風のものである。
この坂倉準三の「日本パビリオン」は、まったくそれまでの日本館のテイストと異なり、1925年アール・デコ博時の、ル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー・パビリオン(新精神館)」によく似ている。
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「1937年パリ万博日本館」の裏話
その「1937年パリ万博日本館」の裏話のような話がこの本には出てくる。
前川も坂倉もモダニズムの建築家だった。
じつは、新宿の昔の「紀伊國屋書店」の建物は前川國男が設計したものだということである。
これは、「新宿の闇市が並ぶ中に完成した木造二階建てのモダニズム建築」ということでこの本にはイラスト(写真かも?)が掲載されているが、木造でモダニズムをやるというのもなかなか発想がすごい。
どうも当時コンクリート造はコストが高かったのが原因のようである。
しかし、その後日本の建築家もコンクリートとガラスのモダニズム建築を手がけるようになっていく。
藤森氏はこの本の中で次のように述べている。
坂倉さんはそのくらいすごい人なのに、作品として思い浮かぶのは、戦前の1937年の「パリ万国博覧会」。次は「神奈川県立近代美術館(1951年竣工)。それ以外は印象が薄い。(ゴシックは筆者による。以下同様)
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なるほど、建築の専門家からみてもパリ万博の日本館は印象に残る作品だったということだ。
そして、次のページには、その「パリ万博日本館」の写真が載っている。
キャプションには次のようにある。
パリ万国博覧会日本館
1937年に開催されたパリ万国博覧会で、エッフェル塔を望むトロカデロの丘の傾斜地に建てられた。
建築コンクール(審査委員長オーギュスト・ペレ)でアルヴァ・アアルトのフィンランド館、セルトのスペイン館とともにグランプリを受賞した。写真は北東側外観(文化庁国立近現代建築資料館蔵)
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ともにグランプリを受賞した「フィンランド館」のアルヴァ・アアルトについては以前ご紹介した。
また「セルトのスペイン館」とは、あのピカソの『ゲルニカ』、アレクサンダー・カルダーの『水銀の泉』、ミロの『刈り入れ人』が展示されていたエポックメーキングなパビリオンだった。
坂倉準三とル・コルビュジエ
さて、坂倉はル・コルビュジエ(1877-1965)とも親交があった。
藤森氏の発言には以下のようにある。
坂倉さんは1931年にコルビュジエの事務所に行きます。
(中略)
・・・パリの左翼的グループに坂倉さんが入っていたということを知って、本当にびっくりしました。
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1937年パリ万博日本館設計の裏側
また、パリ万博の日本館については磯崎さんの発言として次のようにある。
僕が知っている限りでは、フランス政府それにカタルニア・スペインなどは左翼の人民戦線、一方で、右翼のヒットラーと左翼のスターリンが出展している。
パリ万博のメインとなるエッフェル塔からパレ・ド・トーキョーに至る大通りを挟んで、アルベルト・シュペーアとボリス・ミハイロヴィチ・イオファンが向かい合うわけじゃないですか。
つまり、ヒットラーとスターリンの代理文化戦争というわけです。
そのメインの中に日本館なんて入っていない。
日本館は、ずっとはずれのセーヌ川の対岸あたりにある第二会場に割り当てられていたんです。妙な敷地のかたちだから、前川さんが日本で準備した案を、お前が現地で実施設計をやれと言って、坂倉さんに渡したわけですね。
ところが、実際の敷地に当てはめてみたら、設計案が敷地からはみ出すということがわかった。これを理由にして全部やり直しますと言って、坂倉さんが設計を丸ごと変えちゃっとというのが日本館の経緯です。
(中略)
日本館の段取りをした委員長は岸田日出刀さんで、設計の担当は前川さんだったんです。
ところが、この二人が設計した案は日本的ではないという理由で採用されなかったんですよ。それで前田さん(筆者注:前田健二郎)の見るも無残な折衷案が採用されることになったのだけれど、幸いなことに敷地からわずかにはみ出ていた。しめたとばかりに図面調整を理由にして、坂倉さんが最初から設計し直したと僕は理解しています。
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いろいろな公式資料には出ていないこんな裏話があったとは知らなかった。
なかなか興味深い。
さらに、坂倉はコルビュジエの事務所で仕事をしていたらしい。
コルビュジエはパリ万博の仕事について、スターリンやムッソリーニに売りこんでいたが、仕事にならず、それで事務所が空いているからそこで作業をした。
そして、
それならいっそのこと、コルビュジエ事務所のスタイルでいっちまえ、とデザインした日本館が名作になった。
*
ということである。
また藤森氏は次のような発言をしている。
日本の大使館は屋根のついていないような建築は日本的でないから、建築部門の賞に応募するなって言って応募しなかったが、審査委員長のオーギュスト・ペレがアルヴァ・アアルトのフィンランド館、セルトのスペイン館と、坂倉さんの日本館をグランプリに選んだ。ペレはコルビュジエの先生です。
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なるほど、これもありそうな話である。
賞の裏話としては非常にわかりやすい。
アルベルト・シュペーアとボリス・ミハイロヴィチ・イオファン
ちなみに、磯崎さんの発言の中の「アルベルト・シュペーア」(1905-1981)という人物は、ナチス・ドイツの建築家であり、政治家であった。
アドルフ・ヒトラー(1889-1945)のお気に入りの建築家であり、国民社会主義ドイツ労働者党の主任建築家として、「全国党大会会場」などの設計を手がけた。
そして、1937年パリ万博のドイツ・パビリオンも手がけたのである。
そして、もう一人の「ボリス・ミハイロヴィチ・イオファン」(1891-1976)。
彼はソビエト連邦の建築家で、スターリン様式の代表的な建築家とされる。
そして1937年パリ万博では「ドイツ館」と競り合っているかのように見えた「ソ連館」を設計したのである。
戦争へ向かっていった時代の万博
1937年といえば、日本が盧溝橋事件を起こし、日中戦争に入っていった年であり、ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニ、ソ連ではスターリンといった人物が権力を握り、戦争へと向かっていった時代であった。
スペインではゲルニカに都市無差別爆撃が行われた。
そんな中で開催されたパリ万博。
その日本館は、そんな力学をよそに、西洋の建築家たちの協力に支えられながら設計され、高い評価を受けたのであった。
この書籍は、磯崎氏、藤森氏という建築の専門家ならではの、人にまつわるエピソードが満載で興味は尽きない。
1937年パリ万博の日本館の写真をみながら、その時代、パリがどんな雰囲気だったのか、に想いを馳せる1日となった。