前回は2022年夏の関西への視察旅行のうち、万博記念公園の「太陽の塔」を訪れた話ご紹介した。
今回は、その時に行った、大阪の国立国際美術館で見たミロの陶板壁画についてご紹介したい。
「ミロ展 ― 日本を夢見て」
しかし、その前に、2022年2月11日から4月17日まで東京渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催された「ミロ展 ― 日本を夢見て」(主催:Bunkamura、東京新聞、フジテレビジョン)を訪れた話について触れなければならない。
関西への視察旅行に行く数ヶ月前に訪れた展覧会である。この展覧会はBunkamuraのあと、愛知県美術館、富山県美術館に巡回された。
筆者が訪れたのは2022年の2月末だった。
その頃は、コロナ禍の影響でほぼ全部の美術展は事前予約制となっていた。
いつの間にか、以前はだいたい1200〜1500円くらいだった美術展入場料も1800〜2500円くらいに高騰してしまった。私のようなヘビー・ビジター(?)にはちょっと痛いところだが、主催者側からすると、コロナ起因の予約制、ということは、逆にいうと人数制限をしなくてはならないため、爆発的な入場者数は期待できないので、その分単価を上げないとペイしない、ということだろう。
ミロと日本の出会いももともとは万博から?
さて、ミロである。
ジュアン・ミロ(以前はスペイン語読みで「ホアン・ミロ」と呼ばれることもあったが、カタロニア語で呼んでほしいという本人の希望もあったらしく、最近日本では「ジュアン・ミロ」と表記されている)は1893年にスペイン・バルセロナで生まれ、1983年にパルマ・デ・マジョルカで亡くなった画家である。
バルセロナのミロの生家からすぐ近くには、バルセロナ初の日本美術店「エル・ミカド」があった。
実はバルセロナでは1888年に万博が開催されている。
今もバルセロナに残っている「シウタデリャ公園」というところが会場で、入場者は230万人という小規模なものだった。この万博ではアントニオ・ガウディが活躍した記録も残っている。
さてこの万博には日本も美術品等を出展していた。有田焼の香蘭社も出品し金賞を受賞している。パリでのジャポニスムブームもありバルセロナでもジャポニスムがブームとなる。
この「エル・ミカド」は万博でブームとなった日本の美術品や工芸品を扱っており、ミロもこの生家近くの美術商で日本美術に触れていたのだろう。その後ずっと日本にあこがれることになる。
ミロが日本への関心を持ったのも、もともとは1888年バルセロナ万博がきっかけ、といってもいいのかもしれない。
そして、ミロの初来日がかなったのは1966年9月21日のことだった。
この展覧会でも最初に展示されていたのは、ミロの日本への興味を強く感じさせる作品だ。
作品名は「アンリク・クリストフル・リカルの肖像」というミロの友人を描いたものだが、リカルの背面には日本の浮世絵が精妙に描かれている。
2つの万博とミロ
そしてこの展覧会ではミロと、2つの万博に関連する展示が行われている。この2つの万博とは、一つは「1937年パリ万博」、そしてもう一つは「1970年大阪万博」だ。
1937年パリ万博とミロ
「1937年パリ万博」といえば、ピカソがスペイン共和国館のために『ゲルニカ』を描いたことで有名である。ピカソはファシスト・フランコ政権による北スペインのゲルニカという町の無差別爆撃に衝撃を受けて『ゲルニカ』を描いたといわれている。(この話はまた別途どこかで書くことにしよう)
実はこのとき、ミロも『刈り入れ人』という作品をスペイン共和国館に展示した。『刈り入れ人』は万博終了後消失してしまったが、今回の展覧会には『スペインを助けよ』というリトグラフが展示されていた。この『スペインを助けよ』も同じくフランコ政権に対する抗議という政治的な意味を持つ作品であった。もともとはフランコ政権に対抗するスペイン共和国を支援する1フラン切手のデザインとして描かれた同作は、結局切手に使われることはなかったが、ポスターとなってパリ万博のスペイン共和国館で発売されることになる。
1970年大阪万博とミロ
そして、もう一つの万博が「1970年大阪万博」である。
このときミロは日本を訪れている。ミロの初めての訪日は1966年だったが、2回目は1969年、大阪万博のためだった。大阪万博の「ガス・パビリオン」に『無垢の笑い』という陶板壁画を展示するために来日したのである。
今回の「ミロ展 日本を夢みて」図録の、副田一穂氏の解説によると、
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・・・(日本ガス)協会がテーマを『無垢の笑い』に定め、壁画候補にミロを選ぶと、安田(大阪ガス社長・当時)は電通の第八連絡局長・光永俊郎と京都工業繊維大学教授でインテリア・デザイナーの樋口治とともに、長期にわたるマーク画廊を通じた交渉の末、ミロを口説き落とす。
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とある。
ちなみにこの「電通の光永俊郎氏」というのは、いろいろと調査の結果、電通の創業者光永星郎(みつなが ほしお 1866 -1945)の息子にあたる人物であることがわかった。ちなみに、「俊郎」は「しゅんろう」と呼ぶこともわかった。
また「連絡局」というのは当時の広告会社独特の呼び方で、つまりは「営業局」、というふうにご理解いただければ良い。ミロは光永俊郎氏をたいそう気に入り、いろいろと相談するなど、何かと頼りにしていたらしい。
俊郎氏は、大阪万博当時は大阪ガス担当の大阪支社第4連絡局長だったが、その後東京に転勤、東京第8連絡局長となり、その後、電通監査役となった。そして2017年に97歳で亡くなっている。
ちなみに、上記、リンクを貼った万博記念公園のHPのガス・パビリオンの説明によると、「この館のプロデューサーは光永俊郎であった」という記述がある。
また、同じミロ展の図録の解説には、そのあと、
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陶壁の設置には一足先に来日したジュアン・ガルディ・アルティガスがあたり、遅れて到着したミロはその状況を確認したのち、スロープの白いセメント吹き付けの壁面に即興で絵を描くことを提案、棕櫚(しゅろ)や竹の箒(ほうき)、タワシなどを使って壁面を描きあげている。
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とある。このスロープの壁画は万博終了後解体・破棄されていたとされていたが、今回の展覧会の調査で一部が大阪ガスに保管されていることがわかったという。これも万博的には大発見である。
そして、この1970年大阪万博ガス・パビリオンのために制作された『無垢の笑い』は、その後、国立国際美術館に寄贈されることとなった。
国立国際美術館の『無垢の笑い』の解説パネルには以下のようにある。
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『無垢の笑い』1969 陶版640枚
この巨大な陶板画は、もともと1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の時に、日本ガス協会のガス・パビリオンに展示されていたもので、万博終了後、当館に寄贈された記念すべき作品です。
ガス・パビリオンのテーマは「笑いの世界」で、観客は会場内を巡って、最後にミロのこの大作にいたりました。
この作品は「最後の笑い」つまり「究極の笑い」なのです。
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万博といえば19世紀後半からドラクロワ、アングル、クールベなど今も我々の知る多くの画家が関与してきたが、日本で、そしてアジアで初めて開催された万博「1970年大阪万博」でも、ジュアン・ミロという大家がそのために来日し、いろいろなドラマを残していたのである。
2025年大阪・関西万博にも日本ガス協会は「ガスパビリオン」を出展することになっている。
さて、今回はどんなパビリオンとなるか、今から楽しみである。