今回は駒場キャンパス
前回<41>では、東大本郷キャンパスを訪問し、内田祥三(うちだよしかず、1885-1972)が設計し建築物群をご紹介した。
今回は、引き続き、駒場キャンパスに行ってみた。
駒場キャンパスは、東大に入学した学生全員が、最初の2年間を「教養学部生」として過ごすキャンパスである。(専門として「教養学部」に進学する学生は4年間駒場キャンパスに通う)
本郷キャンパスにはまったく立看(たてかん=立て看板のこと)がなかったが、駒場にはちょっと目についた。しかし、以前に比べればおとなしいものだ。
筆者が学生時代の頃は、本郷にも駒場にも、独特な字体による大きな立看が所狭しと立っており、それがキャンパスの風景の一部となっていた。ピークは超えていたとはいえ、まだまだ当時は学生運動が盛んだったのだろう。
駒場キャンパスには「農学部」があった
駒場キャンパスがあったところにはもともと東大の「農学部」があった。
しかし、当時の東大総長古在由直(こざいよしなお 1864-1934、大正9 年(1920)〜昭和3年 (1928)在任)の、「総合大学は同一キャンパスにあるべき」、という考えに基づいて、1923年関東大震災が発生したのを契機に、当時本郷のとなりの向ヶ丘(現在の弥生地区、農学部の地)にあった「第一高等学校」のキャンパスと交換するということになった。
もちろん反対派も多く存在した。しかし、古在総長の努力や,「僕も一高出身だ、決して悪いようにはしない」と事に当たった内田の熱意が、反対派を説得し「東大の一部のように」して一高ができたのである。震災復旧予算も、「東大および一高」として一括して支給されたという。
そして農学部が本郷に移転したのは1935年のことであった。
我々が、運動部のコンパの最後に灯りを消して必ず全員で熱唱したという(今もこの伝統は生きているのだろうか?)、一高寮歌の「嗚呼玉杯に玉受けて」にも「向ヶ丘にそそり立つ」という歌詞があるように、もともと一高は「向ヶ丘」にあったのだ。
1933年(昭和8年)竣工 「旧第一高等学校本館」(現在の「1号館」)
『内田祥三先生作品集』(以下『作品集』)によると、駒場キャンパスにはいくつかの内田祥三の作品がある。
まずは、「駒場東大前」駅でおりて、正門の正面に見える「旧第一高等学校本館」(現在の「1号館」)である。
この建物がやはり駒場キャンパスのシンボルだろう。上には時計が設置されていて、色はちがうがちょっと安田講堂的な威厳を感じさせる。
内田祥三はこの建物について、次のように述べている。(『作品集』より)
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僕の信念は東京帝国大学というものが一つのものであるから,それが一つであるような設計が必要だ。それを個々別々の人に頼んだんでは,どんな名手でも統一ができない。そこで全体の形式はすべて僕がやることにした。…カーブの性質は勁い(つよい)、日本の建築で言えば古い時代のもののようなのがよい。建物自体もあまり飾らない。質素な、そして剛健な強い形や線のものにしたい、という趣旨で、いまあるようなるのができたのです。
一高は,どういうものを希望するかと聞いたら,東大の一部であるようなものにして欲しい,ということでやったのです。私も賛成でした。それが戦後東大の一部になった。偶然ですかね
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そして、1号館を正面に見て左側に「旧一高講堂」(現在の「900番教室」)、そして右側に「旧一高図書館」(現在の「駒場博物館」)が配置されている。この2つの建物はデザインがよく似ている。対称性を考慮されたのだろう。
そして、これら3つの建物が駒場キャンパスの基調を形作っている。
1938年(昭和13年)竣工 「旧一高講堂」(「900番教室」)
この「旧一高講堂」は、筆者らの頃にはすでに「900番教室」といわれていた。当時から勉強熱心だった(?)筆者はあまり訪れる機会はなかったが、秋の駒場祭のおりには、ここで親しくしていた「応援部」主催の「淡青祭」が催されるのが恒例だったので、その節には毎年参加した。
筆者の卒業した年度の卒業アルバムには、筆者も壇上に上がって、他の友人たち(応援部ならびに東大運動会総務部の友人たち)と一緒に「ただ一つ」(東大の応援歌)を歌っている「淡青祭」の様子が写真となって残っている。
こういった一場面も万博関連人物である内田祥三の建築物の中で行われていたのであった。
40年以上たってそれに気づくとはあまりにも遅すぎる。。
しかし、知らないでそのまま死ぬよりはよかったなあ、と思う。
ちなみに、この建物、もともとは「ミュージアム」にする、というのが内田祥三の根本理念だった。「旧第一高等学校本館」に向かって右に「図書館」、左に「ミュージアム」というわけである。
しかし、その案について、法学部教授会で大反対にあってしまう。
『作品集』には次のようなくだりがある。
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大講堂へのヴィスタと,その軸線の右に図書館左にミューゼアムというのが内田先生の大学施設配置の根本理念であったことはすでに述べた。そのミューゼアムの配置予定位置が法学部にかかり、その教授会の猛反対を受けた。当時の法学部長が美濃部達吉博士(大13~昭2在任)。内田先生と交渉しているうちに賛成論になられたが、教授会はもちろん反対。学部長を辞める、いや営繕課長の僕(筆者注:内田祥三のこと)が辞めるという騒動。頑固者で有名な古在総長も,自分に輪をかけたような男たちに手を焼かれたらしい。(太文字は筆者による、以下同)
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というわけで、結局ミュージアムにはならず、「講堂」となったらしい。
ちなみに、この「900番教室」は、最近になって注目を集めた。
三島由紀夫と「900番教室」
それは、「三島由紀夫(1925-1970)が全共闘の学生たちと討論会を行った場所」として、である。
1969年5月13日、作家の三島由紀夫はこの東大駒場の「900番教室」で、当時東大を占拠していた東大全共闘の学生たちと討論会で対峙していた。
この様子は、最近記録映像がみつかり、公開されているので、ご存知の方も多いであろう。
あの場所こそ、内田祥三設計の「900番教室」であった。
三島はこの討論会の1年半後に市ヶ谷駐屯地で自決してしまう(1970年11月25日)。
日本、そしてアジアで初めて開催された1970年大阪万博閉幕(9月13日)後まもなくの出来事だった。
1935年(昭和10年)竣工 「旧一高図書館」(現在の「駒場博物館」)
これは「旧第一高等学校本館」(現在の「1号館」)を中心とすると、「旧一高講堂」(「900番教室」)のちょうど反対側に位置する建物である。
筆者らが学生の頃は「東京大学教養学部図書館」であった。(と思う。あまり訪れる機会がなかったせいか、残念ながらあまり記憶にない)
1934年(昭和9年)竣工「旧一高寄宿舎中寮、北寮、南寮、明寮」(明寮は1939年竣工)(「駒場寮」)
そして、「えっ、やっぱりこれも?」と思ったのが「駒場寮」である。
筆者が駒場時代に住んでいた場所である。
住んでいたのは一番北に位置する明寮の4階。少林寺拳法部の部室である。
駒寮は鉄筋コンクリート構造で、20畳くらいの大きく区切られた部屋の中に3人くらいが住むという作りになっていた。筆者は同期の相棒と2人で住んでいた。
夏は、冷房はなかったが、壁が分厚いせいか、今ほど温暖化も進んでいなかったせいか、部屋に入るとひんやりする感覚もあった。
冬は寒いが、「旧公衆衛生院」の講堂にあったセントラルヒーティングのラジエーターがあり、そこから暖かい空気が部屋に広がっていく仕組みであった。
当時は、もちろん内田祥三大先生の貴重な作品とはつゆ知らず、あまり清潔には使用していなかった(という表現ではとても足りない実態だった)。
夜になると、先輩やOBがやってきて麻雀に付き合わされたりした。向かいの部屋には8期上の先輩(れっきとした社会人)が「住んで」いた。
朝になるとネクタイをして「出社」するのだ。
いくら自治が認められた寮とはいえ、あるいはちゃんと寮費は払っていたとはいえ、今考えると変な話ばかりだ。
そんないろんなことも、万博関連人物である内田祥三先生の貴重な作品の中で行われていたのであった。
そんなことに40年以上経ってやっと気づくとは(2回目)。。。
さて、こんなくだらない(貴重な?)思い出を語っていると、いつまで経っても終わりそうにない。
駒場キャンパスに設置された地下通路
そこで、『作品集』にもどると、次のような驚くべき事実が明かされる。
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農学部と一高の敷地交換に際し,内田先生は、「一高のためになるようにやるから」という約束をされた。御自分の出身校でもあるし、昔から東大の予備門のような存在であったから、これは当然の処置とも言えよう。しかし外部の人からすればまったく横暴で、シャクの種であったかも知れない。
ともかく先生は最高の高等学校施設の建設を目標に計画を進められた。東大と同じようにということは,その個々の建築のデザインにも明らかにうかがえる。またいかにも高校生にヒットするような卓抜なアイディアも出された。約束は守られたのである。そのアイディアの一つが、雨天でも寮から傘なしで図書館や講堂に行ける地下通路の建設。起床後5分でトイレ・洗面・メシ、そして教室で涼しい顔で出席の点呼に応ずるという離れ業は,旧制高校の寮生活を経験した方々には懐しい想い出であろう。なにかそんな”良き時代“を思わせるアイディアである。世代にうまくヒットした愛情のある考えだと思う。
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筆者らの頃にはそんな便利な地下通路はすでに機能していなかった。いやあるいは、まだ秘密裏に開通していて、知っている人たちのみに活用されていたのかもしれない。
この地下通路があれば、筆者の出席率ももっと上がっていたことだろう。
この地下通路、今はどうなっているのだろうか。さらなる調査が必要である。
東大駒場寮の廃寮
東大駒場寮も2001年8月22日に強制執行が行われ、廃寮された。
この、内田祥三の貴重な建築文化財、という歴史的・文化的価値をじゅうぶんに認識していれば、内装を全面的に改装するとか、用途を変えるとか、文化財として、外観だけでも残す手があったのではないか。
今回行ってみると、駒場コミュニケーション・ブラザというコンクリート打ち放しのモダニズムの建築物になっていた。
これはこれで一つの建築物として否定するつもりもないが、キャンパス全体の統一されたデザイン、ランドスケープというのはどういう方針なのだろうか、と思ったりする。
海外の大学では、たとえば、スタンフォード大学などでも、基本、新しい建築物を建てる場合にも、同じトーンを壊さないようにデザインされている。
たとえば、経営学部大学院は、数年前に卒業生であるナイキ創業者のフィル・ナイツの莫大な寄付により、講堂含む一連の建物を新築した。しかし、様式は他の建物を同様であり、キャンパス内の統一感を損なわないように留意されている。屋根にソーラーパネルが設置されるなど、屋根のデザインは一部変更とはなっているが、歩いている分には全く変わらず統一されている。
一方、東大駒場キャンパスをみてみると、「内田ゴシック」である1号館や「旧一高講堂」、「旧一高図書館」のデザインと、「駒場コミュニケーション・プラザ」のモダニズムのデザインではまったく異なったテイストである。
じつは本郷でも、いつのまにか安田講堂の左奥に理学部のモダンな建物が立ってしまい、安田講堂のヴィスタを台無しにしている。
予算の問題等もあるのだろうが、やはりなんらかの統一の取れたキャンパスデザインというものも必要なのではないだろうか。
以上、40年以上前の自分の過去に向き合うことになった今回の調査であった。