<3>LA BRETAGNE展とパリ万博②(国立西洋美術館)

パリ万博

「ブルターニュ展」と万博

さて、今回も、国立西洋美術館で開催されている「ブルターニュ展」である。

前回は主に、1889年パリ万博での、ゴーガンらの「カフェ・ヴォルピニ」での展覧会についてご紹介した。

しかしながら、今回の展覧会には、まだ万博と関連した展示作品が複数ある。

アンリ・リヴィエールとエッフェル塔

まずは、フランスの画家・版画家のアンリ・リヴィエール(1864~1951)である。アンリ・リヴィエールは日本の浮世絵、特に北斎や広重に影響を受け、自分でもいろいろな浮世絵風の版画を制作した人物であった。

万博に関連する有名な作品としては、1889年パリ万博の企画として建設された「エッフェル塔」を題材に制作した『エッフェル塔三十六景』が挙げられる。もちろん、北斎の『富嶽三十六景』に影響を受けたものだろう。

その中でも、特に筆者が気に入っているのが、『建設中のエッフェル塔、トロカデロ宮からの眺め』という作品である。この作品は、1996年1月14日から3月31日まで(もうずいぶん前のことになってしまった。。。)東京都美術館で開催された「モデルニテ − パリ・近代の誕生 オルセー美術館展」でも展示されていた。
実は筆者はこの展覧会の担当をしており、数度パリにも出張に行かせていただいた。オルセー美術館のキューレーターの人たちと親しくおつきあいさせていただいたのもいい思い出だ。
さて、この時は、『エッフェル塔三十六景』より、当作品を含め全部で4点の作品が展示された。

アンリ・リヴィエール『建設中のエッフェル塔、トロカデロ宮からの眺め』(『エッフェル塔三十六景』の一枚)

歌川広重『東海道五十三次 蒲原 夜の雪』
Utagawa Hiroshige “Kambara Night Snow, from Fifty-three Stations of the Tokaido series”

また、アンリ・リヴィエールは、『建設中のエッフェル塔写真』という何枚かの写真も残しており、それもこの「モデルニテ展」に展示されていた。リヴィエールがエッフェル塔を格好の素材と注目していたことがわかる。

さて、この『建設中のエッフェル塔、トロカデロ宮からの眺め』であるが、この絵は、歌川広重の『蒲原 夜の雪』に似ている気がしないだろうか。雪の中を数人の人物が傘をさして黙々と歩いている様子はまさに類似していると思う。「三十六景」というシリーズタイトルは北斎からヒントを得たが、この絵のモチーフは広重からヒントを得たということだろう。

アンリ・リヴィエールと1900年パリ万博

さて、そんなジャポニスムを代表する画家の一人、アンリ・リヴィエールだが、この「ブルターニュ展」にも、彼の作品が展示されている。

しかも1900年パリ万博にも出品され、版画部門で金賞を受賞したものである。その作品とは『連作「ブルターニュ風景」より:《サン=タンヌ=ラ=パリュ教会のパルドン祭り》』(1892-93年、多色木版、国立西洋美術館)というものである。

図録の、山枡あおい氏による解説によると

「cat.73(筆者注:この作品)は都合50枚もの版木を費やした大作で、1900年のパリ万博に出品され、版画部門で金賞を受賞した。5枚続きの形式は、たとえば鳥居清長の《大川端夕涼み図》のような浮世絵のそれに着想を得たものと見てよいだろう」

とある。

この絵の印象はどことなく暗い。巡礼者が黙々と行列を作って歩いていく中、壁に沿って物乞いとおもわれる人たちが座っていたりする。後ろの壁は教会だろうか。この「パルドン祭り」というのはどんな祭りなのだろうか。「パルドン」という名の通り、許しを請う、ブルターニュ地方の祭りということらしいが、詳しいことは、wikiなどでご確認いただきたい。

この『連作「ブルターニュ風景」より:《サン=タンヌ=ラ=パリュ教会のパルドン祭り》』がそもそも国立西洋美術館の所蔵品だった(!)ということも驚きだった。1900年パリ万博の金賞受賞作品をさりげに所蔵しているとはさすが西美である。

この他、この展覧会には、アンリ・リヴィエールの作品が数点展示されている。いずれもブルターニュを描いたものであるが、日本の浮世絵版画を思わせる、『パルドン祭り』に比べると比較的明るい色彩の作品たちであった。

アンリ・リヴィエールと林忠正

また、資料として興味深いのが、アンリ・リヴィエールから林忠正に当てた絵葉書や書簡が展示されていたことだ。これらはいずれも「東京文化財研究所(国立西洋美術館に寄託)」というもので、これらも通常から日本に存在しているものだ。

林忠正(1853 – 1906)といえば、大学南校(のちの開成学校、その後東京大学)でフランス語を学んでいたところ、1878年第3回パリ万博のために起立工商会社に雇われ、パリに渡った人物である。その後、パリの三井物産にも一時雇われたりしていたが、その後パリで画商として日本文化をヨーロッパに伝えることに尽力した人物である。
(詳細は拙著『万博100の物語』第47話〜49話ご参照)

そして、1900年第5回パリ万博の際には、日本の万博出展をとりしきる「事務官長」という大役(通常は商工省の次官クラスの職位とされていた)に任命された、という万博にもゆかりの深い人物である。

どうやら林忠正はアンリ・リヴィエールに東京の自宅のために何か作品を頼んでいたらしいが、林忠正の死によってキャンセルされてしまった模様である。ここに展示された合計5件の書簡や絵葉書は、1903年7月15日から1905年7月25日までに書かれたもの、ということである。

林は1900年パリ万博の残務処理を終え、1901年にいったん帰国している。しかし、パリにあった彼の生活基盤を整理し、最終的に日本に帰国したのは1905年のことである。

なのでこれらの書簡や絵葉書は日本とパリと行ったり来たりしていた頃にやりとりしたもの、ということになろう。そして、帰国後はまもなくして体調を崩してしまい、1906年4月10日に53歳という若さで亡くなってしまう。それでアンリ・リヴィエールへの依頼もキャンセルになってしまったのであろう。

ちなみに、さきほどの1996年開催の「モデルニテ展」では、アルベルト・バルトロメ(1848 – 1928)による、『林忠正のマスク』(1892、ブロンズ、赤みを帯びたパティナ)という作品が展示されていた。この作品は赤みがかった「面」の作品であるが、林忠正の写真を見ると、相当に写実的に制作されたものであることがわかる。林がパリのいろいろな芸術家と親交を結んでいたことがうかがえるのである。

このように、この「ブルターニュ展」には、思いもかけず万博に関連するものが多数出品されていたのだった。

2025年大阪・関西万博に向けて、万博の歴史に興味をお持ちの方は是非この機会に訪れてみたらいかがだろうか?

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