<79>「もうひとりのル・コルビュジエ」展

1925 Paris Expo
大倉集古館と展覧会サイン photo©️Kyushima Nobuaki

ル・コルビュジエの絵画展

今年2024 年6月25日(火)~8月12日(月、祝) まで、東京の大倉集古館

特別展 大成建設コレクション
もうひとりのル・コルビュジエ
~絵画をめぐって~
Another Aspect of Le Corbusier – Exploring his Paintings –

が開催中である。

大倉集古館と展覧会サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

大倉集古館と展覧会サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

今回の展覧会は建築家としても有名なル・コルビュジエ(1887~1965)の絵画を中心とした展覧会である。
大成建設にはル・コルビュジエ・コレクションというコレクションがあり、その充実した世界有数のコレクションの中から約130点の作品が展示されている。

会場内は写真撮影が禁止なので、ここでその様子をご覧いただくことはできないが、初期の作品から晩年の作品にいたるまでその画業を一覧することができる。

ル・コルビュジエといえば、この会場の近くの赤坂アークヒルズの会員制クラブにも充実したコレクションがある。
一度、知人に招待され、このクラブでランチをご馳走になったことがある。
クラブ内にル・コルビュジエの作品が多数飾られ、大変贅沢な気分を味わった。ここも写真撮影は禁止だったので、写真は撮っていない。

さて、しかし、ル・コルビュジエといえば、建築家としての顔の方が有名かもしれない。

日本では『国立西洋美術館』がル・コルビュジエの唯一の作品として有名である。2016年7月、この西洋美術館も含む世界7ヵ国17の作品がユネスコの世界遺産に登録された。

国立西洋美術館
The National Museum of Western Art

フランス東部にある『ロンシャンの礼拝堂』もル・コルビュジエ作品として有名である。この独特な建築が見たくて、2000年代前半にパリに行ったついでに足を伸ばして見てきた。
外観も独特だが、内部の光のデザインが素晴らしく、ずいぶん長い時間を過ごした記憶がある。

ル・コルビュジエ「ロンシャンの礼拝堂」
Le Corbusier “The Chapel of Notre Dame du Haut at Ronchamp”
©️Nobuaki Kyushima

ル・コルビュジエと万博

そして、ル・コルビュジエは万博にも参加している。
筆者調べによると少なくとも3回の万博に参加していることがわかっている。

1925年パリ万博

この万博は「装飾芸術・現代産業万博」(通称「アール・デコ万博」)というもので、アール・デコ様式のデザインが花盛りだったころの万博である。

この万博で、ル・コルビュジエは「エスプリ・ヌーヴォー(新精神)」館を手がけた。
このモダニズムの作品は、当時としてはかなり大胆なデザインで、一般には受け入れられず、万博協会はその建物を開会直前まで、高さ6メートルのフェンスで隠してしまうほどだったという。
今写真を見るとそんなに議論を起こすほどのデザインとも思えないが、当時の常識からみると相当新しかったのだろう。

このパビリオンで、ル・コルビュジエは、半分のスペースで都市計画をプレゼンテーションし、残る半分は高層アパートのモデルルームとし、新しい時代の暮らしを提示した。
そして、室内には自作の絵画を展示したのである。
ただ、現状の調査ではどの絵画が展示されたのかはわかっていない。もしかしたら今回の展覧会に展示されている作品だった可能性も残されている。

また、新時代を象徴する飛行機の模型が壁にかけられていた。

1925年「アール・デコ博」
「エスプリ・ヌーヴォー館」
Expo 1925 Arts Décoratifs
L’Esprit Nouveau Pavilion

これについては、詳しくは
<20>1925年パリ「アール・デコ博」とは
でご紹介したのでそちらをご参照いただきたい。

ちなみに、このパビリオンは1977年にイタリア・ボローニャ郊外の公園に再建されたという。

1937年パリ万博

つづく1937年パリ万博では、ル・コルビュジエは「新時代館」(”Pavillon des Temps Nouveaux”)で参加した。

この時の日本パビリオンは坂倉準三が設計し、建築グランプリを受賞したが、この坂倉準三はル・コルビュジエの弟子であった。
坂倉準三については
<45>堺雅人さんも住んだ「宮崎県東京学生寮」の取り壊し
でご紹介した通りである。

さて、この「新時代館」であるが、いわゆるパビリオンのイメージというよりは巨大なテントである。
これについては、『もっと知りたい ル・コルビュジエ 生涯と作品』(林美佐著 東京美術)に詳しく述べられているので、引用したい。


「現代の都市計画の可能性を『大衆教育の博物館の試み』として創作し、組織だて、展示館を建設する。このかなりな展示館(1万5000㎡)は布でできていて、壁と屋根だけがある。屋根は1200㎡が1枚に縫い合わされて、一挙に張られる。ケーブルと細い鋼のやぐらによる、柔軟な大胆きわまりない構造である。」(『全作品集』第3巻)と本人が説明しているように、巡回を構想していた<新時代館>は巨大なテント状のパビリオンであった。
(中略)
このパビリオンは非常にカラフルであり、フランス国旗と同じ3色(トリコロール)で、テントは青く、入口周りは白、入口天蓋には赤い布が張られていた。さらに内部の壁面の色彩は、入口を入ったところの壁は真赤、左壁は緑、右壁は濃いグレー、入口の壁は青。地面は明るい黄色に着色した砂利。天井は強い黄色であったという。
エントランスを入ったところには、中央ホールを目指して飛ぶ飛行機の模型が設置された。
(中略)
そして15のテーマに分けて大型のフォトモンタージュやイラストによるパネルが所狭しと設置され、来場者は巨大テントのなか、2層になった展示スペースを回遊した。展示パネルは、フェルナン・レジェやホセ・ルイ・セルトらが制作し、「都市計画の歴史」や、「パリ計画37」、「農業改革」、「CIAM(=現代建築国際会議)憲章」などについて説明された。
中央ホールでは、万博会期中にCIAMのパリ大会が開催された。

1958年ブリュッセル万博

第2次世界大戦後、初めて開催されたBIE公認の大型万博が、ベルギーで1958年に開催されたブリュッセル万博であった。この万博は、4145万人という膨大な入場者を集め、特に建築関係の展示が充実していた。

1925年「アール・デコ万博」から30年以上を経て、70代となっていたル・コルビュジエは、このブリュッセル万博では『フィリップス・パビリオン』を担当した。この建築は、「1958年ブリュッセル万国博覧会 公式記録」(財団法人日本万国博覧会協会が翻訳し、1966年1月に作成した日本語版のもの)によると、次のように評されている。
「計画では、こだまと照明のための反射面を持つ閉鎖された無際限の空間が要求された。全体はあまり大きくないことが必要とされた。この前代未聞の計画は、直線を母線とする一連の円錐曲線体によって、予想もされなかったような形で実体化する。これらの円錐曲線体は明確な周囲とのつながりがないので、内部に入ると可視的限界のない袋を作る。母線は直線でなければならぬという点から、鉄筋コンクリート用鉄筋ケーブルの間に菱形の薄いコンクリートをはさみ、テント屋根のような二つの面を用いて館を建てることが可能になった。明確な問題から生まれたこれらの技術を用いて設計者はその館を野外彫刻のように扱った。造形的美点と影のリズムは真の芸術家が作りだしたものである」
ほめてはいるようだが、なかなか難解な批評である。
しかし、この建築に対する当時の一般の評価は必ずしも高くはなく、しばしば、「崩壊したアルミニウム製テント」とか、「重大な飛行機事故」と評されたという。
建築物としての評価はともかく、この『フィリップス・パビリオン』自体の人気はなかなかのものだった。コンセプトは、エドガー・ヴァレーズ作曲の『電子の詩』をもとにしていて、この500人収容の会場の中で、光、色、音を楽しむために、毎日群衆が押しかけたという。

ル・コルビュジエは絵画と建築家の二刀流だった。
今回の展覧会は絵画に焦点を当てたものだが、その建築にも思いを馳せながら、さらには万博との関係にも思いを馳せながら鑑賞すると、ル・コルビュジエの人生にさらに大きく多様な想像が膨らんでいくのであった。

 

 

 

 

 

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