「モネ 睡蓮のとき」展
現在、東京・上野の国立西洋美術館にて
という展覧会が開催されている。
もちろん、印象派を代表する画家クロード・モネ(1840-1926)に焦点をあてた展覧会である。
会期は2024年10月5日〜2025年2月11日。
その後、京都、豊田を巡回する予定となっている。
タイトルのフランス語
Paysages d’eau
であるが、あえて図録やパンフレットでも翻訳がない。
これは訳すと
水の風景
となる。
「最後のモネ」、とは意味深長な感じだが、この意味は、この展覧会を訪れるとよくわかる。
展覧会後半では、モネが最晩年期に描いた、いわゆる我々のよく知るモネの繊細なタッチとは異なり、荒々しいタッチの、抽象画にも見えてしまうような作品が多数展示されているのである。
これは、1908年以降、モネが目の病気を患って視力が低下したことの影響も大きかったと思われる。
こういった作品は普通のモネ展だとめったにお目にかからない貴重なものであろう。
パリの「マルモッタン・モネ美術館」
今回の展覧会では、パリの「マルモッタン・モネ美術館」から日本初公開作品を含む約50点が来日している。
パリの「マルモッタン・モネ美術館」といえば、あの、「印象派」の名前のもとになったモネの『印象・日の出』(1872年)を所蔵していることで有名である。
筆者もパリを訪れた際は、この美術館で『印象・日の出』をじっくり味わった経験がある。
パリを頻繁に訪れていた当時は単に「マルモッタン美術館」と称されていたと思うが、いつからかモネ作品を多く所蔵することがわかるように「マルモッタン・モネ美術館」となったのだろう。
もちろん、この美術館はモネ作品だけを所蔵しているのではなく、ベルト・モリゾ、エドゥアール・マネ、ギュスターヴ・カイユボット、カミーユ・コローなどの作家の作品や、中世の美術品なども所蔵している。
モネと睡蓮
このテーマについては
でもご紹介した。
ちょっと引用・要約しよう。
1978年パリ万博とモネ
まず、万博に関連するモネの作品には、『パリのモントルグイユ街、1878年6月30日の祝祭』がある。
これは1878年5月20日から開催されていた第3回のパリ万博の成功を祝って祝日になった6月30日の、フランス国旗で満たされたパリの賑わいを描いたものである。
この作品は、すでに始まっていた1878年パリ万博には展示されなかったが、ほぼ同じ構図の『サン=ドニ街、1878年6月30日の祝祭』とともに翌年の第4回印象派展に出品されている。
1889年パリ万博とモネ
次の第4回目となる1889年パリ万博では、シャン・ド・マルスの「パレ・デ・ボザール」で「フランス絵画の回顧100年展」が開催された。
これは、1789年のフランス革命時から今回の万博開催年である1889年までの油彩画652点、彫刻140点が「パレ・デ・ボザール」にて展示されたものであったが、その展覧会にマネ、ピサロ、セザンヌなどとともに、『チュイルリー公園』など3点のモネの作品も展示されていた。
また、モネは、この万博に出展されたマネの『オランピア』がアメリカに売却されるという話を聞き、2万フランを目標にして募金活動をして海外流出を防いだという逸話も残している。
モネと「睡蓮」の出会い
そして、この、エッフェル塔が建設された記念すべき1889年パリ万博で、モネは「睡蓮」を「発見」することになる。
じつは、当時のフランスでは睡蓮の花といえば「白色」のものしかなかった。
しかし、ジョセフ・ポリィ・ラトゥール=マルリアック(1830~1911)という人物が、交配によりピンクの睡蓮をつくることに成功し、その後、その色は増えていった。
その新開発・先端技術のいろいろな色の睡蓮をラトゥール=マルリアックが出品したのが1889年パリ万博であった。
この展示は大評判になり、それを見たモネが、その後自分で様々な睡蓮を栽培し、それを数多くの作品に描いたのである。
ラトゥール=マルリアック社
このラトゥール=マルリアックであるが、まだその会社が残っている。
同社のホームページによると、この1889年パリ万博で、ラトゥール=マルリアックの睡蓮はトロカデロ宮(セーヌ川をはさんでエッフェル塔の対面にあった)の前の「水の庭」に展示され、大評判となり、一等賞を受賞したという。
それまで耐寒性の睡蓮は白色のものしかなかったが、ラトゥール=マルリアックは繊細な黄色から赤紫色、そして深紅までさまざまな色の花を咲かせる睡蓮をつくりあげていたというのだ。
このパリ万博はラトゥール=マルリアック社にとっても睡蓮のビジネスを拡大する大きな契機になったという。
そしてこの万博会場で、そのラトゥール=マルリアックの新技術の成果である色鮮やかな睡蓮に目を留めたのがクロード・モネだった。
(同社ホームページより、筆者訳、以下引用も同様)ことになる。
そして庭が完成すると、モネはラトゥール=マルリアックに大量の睡蓮を発注したのである。
『ハス』かもしれなかった『睡蓮』
ラトゥール=マルリアック社のアーカイブにはその注文の詳細が今も残っている。
それによると、モネは数回のオーダーをしている。
最初のオーダーは1894年であり、この年はモネが「水の庭」をジヴェルニーに完成させた年である。
この時は、睡蓮のほかにも睡蓮とほぼ同じ数のハスなど、合計40点近いオーダーをしている。
その後も1904年、1908年にも追加でオーダーをしている。
また、ラトゥール=マルリアックは、モネの耐寒性への心配に答えて、モネへの請求書にハスについての指示書も添えている。
などと書いている。
しかし睡蓮の栽培は成功したが、ハスは成功しなかった模様だ。
とある。
なるほど、そんな可能性もあったのだ。
ハスの栽培が成功して『ハス』の連作が実現していたらどんな作品群になっていたのか想像すると楽しい。
当時の最先端技術の結晶を描いた『睡蓮』
モネが「睡蓮」をモチーフにした一連の作品を描き始めるのは1897年以降である。
ジヴェルニーの自分の土地に日本風の庭をこしらえ、その「水の庭」に色とりどりの睡蓮を購入して育て、そしてそれを描いたというわけだ。
ということである。
モネが、単に美しい花を描いたのではなく、当時の最先端技術の結晶を描いていた、と考えると、また『睡蓮』を見る眼も少し変わってくるのではないだろうか。
誰もが知るモネの『睡蓮』の連作も、1889年パリ万博での運命の出会いが始まりだった。パリ万博における新しいタイプの睡蓮との出会いがなければ、この一連の傑作は誕生しなかったかもしれないのだ。
ちなみに、このラトゥール=マルリアック社はジョセフ・ポリィ・ラトゥール=マルリアックによって1875年に設立されている。その後何度かオーナーが変わりつつも、今もパリ万博での成果のおかげか無事存続している様子である。
パリから遠く南西南、ボルドーとトゥールーズの中間あたりに位置し、そこには1ヘクタールという広大な睡蓮の「水の池」があり、300種近い睡蓮が楽しめるという。
1889年パリ万博での「モネと睡蓮の出会い」を想いながら、この展覧会のさまざまな「睡蓮」たちを見ると、また万博の歴史の迷宮に入り込んだような気持ちがするのだ。