2023年9月1日は関東大震災発生100年
9月に入ったというのにまだまだ暑い。今年(2023年)の夏は異常に暑い。ウェザーニュースによると「2023年の夏は過去最高を大きく上回る圧倒的な暑さ」とある。
地球温暖化の影響が、いよいよ我々の生活を脅かすところまで来たか、という感じである。
こうなると停電が心配である。
停電になってしまうとエアコンが使えなくなり、多くの人が熱中症で死亡してしまうのではないだろうか。
さいわい、筆者の住む東京ではこれまで停電はなかったし、最近、節電の要請も終わったというふうに聞いている。
しかし、もし、大地震などが起こって送電線が損傷を受け、大規模な停電が起こったらどうなるだろう。
100年前の1923年9月1日11時58分には関東大震災が起こり、当時は火災で亡くなった方も多かった。死者・行方不明者は10万5000人に上るという。
万博の中には、大火災、大地震の復興記念として開催されたものもあるが(大火災の復興記念:1893年シカゴ万博、大地震・火災の復興記念:1915年サンフランシスコ・パナマ太平洋万博)、できればそんな万博は開催したくないだろう。
さて、そんな中、少しでも地球温暖化を遅らせるために、いつも公共の交通機関を利用することを心がけている筆者と助手0号は、都バス1日乗車券(500円)を購入、バスを駆使して東京白金台の「松岡美術館」へと向かった。
都バスの「東大医科研病院西門」バス停から徒歩2分という近さである。
松岡美術館
この松岡美術館は、明治27年生まれの実業家松岡清次郎(1894-1989)が蒐集した美術品を一般に公開している美術館である。1975年に東京港区新橋にオープンしたが、2000年からは港区白金台の自宅跡地に新美術館が完成し、そちらに移転している。
1階には古代オリエント美術、ヘンリー・ムーアなどの現代彫刻、古代東洋彫刻の部屋がある。それに加えて、「企画展示スペース」があるが、今は「江戸の陶磁器 古伊万里展」が開催中である。(2023年6月20日〜10月9日)
いずれも見応えのある展示である。古伊万里などは、19世紀にさかんに西洋に輸出され人気を博していた。万博にも展示されたりしていた。
もしかしたら、今回展示されているものの中にはそんな貴重な品も含まれているかもしれない。
そんなことを思いながら、いよいよ2階へ向かう。
2階では、今回の目的である「モネ、ルノワール 印象派の光」展が開催されている。(2023年6月20日〜10月9日)
モネ、ルノワール、とあるので、まあこういった万博に関連した画家の作品が見れるだろうな、という軽い気持ちで訪れたが、大きな発見があった。
ブーダンの1889年パリ万博出展作品
それは、ウジェーヌ・ブーダン(Eugène-Louis Boudin、1824-1898)の『海、水先案内人』(『Marines, les Lamaneurs』、油彩、カンヴァス 65.0×92.0cm)という、1884年、ブーダン60歳のときの作品である。
この絵の解説には、次のようにある。
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ブーダンはサロンに出品し続けた一方で、1874年の第一回印象派展にも参加している。
ブーダンの故郷、ノルマンディ地方は天候の変化が激しく、空は一瞬にしてその表情を変える。雲の動きを見事に捉えた空は画面の三分の二を占め、「空の王者」と称されたブーダンの自然に対する確かな観察限を伝えている。
この作品は 1889年のパリ万国博覧会で金メダルを受賞している。
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さりげなく書いてあるが、1889年パリ万博の金メダル受賞作品である。
そんな貴重な作品が松岡清次郎氏によって日本に持ってこられていたのだ。
さて、万博亭秘蔵の1889年パリ万博美術カタログで確認してみよう。
この万博にはブーダンは合計5点の作品を出展している。
まず、「絵画と彫刻」のフランス部門に2点、
『Un coucher de soleil; – marine』 (『夕日、海辺』)
『Les Lamaneurs』
そして、Exposition Centennale(フランス絵画の回顧100年展)に3点、
『Panorama d’Auvers en 1871; – vue prise de la Tête de Flandre』
(『1871 年のオーヴェールのパノラマ。 – テット・ド・フランドルからの眺め』)
『Les quais d’Auvers en 1871 avant L’etablissement des docks』
(『埠頭が設置される前の 1871 年のオーヴェールの岸壁』)
『Vue du port de Brest』(『ブレスト港の眺め』)
この合計5点を出展している。
そして、この目の前にある松岡美術館の作品は2番目の『Les Lamaneurs』ということになる。
松岡美術館の作品解説にある『Marines, les Lamaneurs』とことなり、「Marines」が、パリ万博のカタログには含まれていないが、松岡美術館の解説に「パリ万国博覧会で金メダルを受賞」とあるということは、同じ作品とみて間違いないだろう。
たまたま訪れてみた松岡美術館であったが、134年前のパリ万博に展示されていたまさにその作品が、今目の前にある、というのは感慨深い。
どんな経緯でいつ松岡美術館の所蔵品に入ることになったのか、その経緯もできれば調べたいところである。
しばらくの間、この作品の前にたたずみ、キャンバスに描かれた海と波、幾艘もの船をみつめ、そして青空に広がるたくさんの雲たちの流れを感じつつ、パリ万博の頃の展示を想像しながら、134年の時の流れを感じていた。これも貴重な体験だ。
アンリ・マルタンと万博
そして今回、アンリ・マルタン(1860-1943、Henri Jean Guillaume Martin)の作品が3点展示されていた。
マルタンはフランスの新印象派の画家である。
マルタンといえば、2022年3月26日から6月26日まで、東京新宿のSOMPO美術館で「シダネルとマルタン展」という展覧会が開催された。(その前にひろしま美術館、山梨県立美術館を巡回)
それまでシダネルもマルタンもあまり馴染みがなかったが、この展覧会をみて、一気にこの2人の画家に引き込まれていった記憶がある。
その理由の一つとして、二人とも万博に関連した画家だったということもある。
じつはこのマルタンという画家もブーダンと同じく1889年パリ万博で65平方メートル大の『革命記念日』(『La Fête de la Fédération』)で金賞を受賞している。これは筆触分割を用いたマルタン初めての大規模な装飾画であった。
そして、この展覧会の図録によると、P128の年表の、1900年のところに、マルタンは再び
「パリ万博でグランプリを受賞」
という記述がみられる。
しかし、この図録にはそれ以上のことは書かれていない。
そこで、1900年パリ万博美術カタログをチェックしてみると、マルタンはこの1900年万博に7点の作品を出展したことがわかった。
しかし、このカタログは受賞リストではないので、この中のどの作品が「グランプリを受賞」したのかは現状わからない。もう少し調査が必要である。
ちなみに、アンリ・ル・シダネル(1862-1939)はあの、1867年パリ万博に作品を出展していた、ナポレオン3世お気に入りの画家、アレクサンドル・カバネル(1823-1889)に学んだ画家で、彼も1900年パリ万博で銅賞を受賞しているのである。
コリウールの特徴的な塔は?
さて、今回は3点のマルタン作品が展示されている。
その中の1点が『入江、コリウール』という作品である。
「コリウール」といえば、<26>現在開催中の「マティス展」とマティスの万博出展作品 でご紹介したアンリ・マティスの『コリウール風景Paysage de Collioure』を思い出す。
また、<32>「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展①でもご紹介した通り、この展覧会でも、マティスの『コリウール』(1905年、”Collioure”)が出展されていた。
その時の図録によると、次のようにあった。
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コリウールは地中海浴前にあるスペイン国境近くの港町。1905年5月から9月まで、マティスは、友人で画家のドランとともにここに滞在し、それまでの点描から自由な賦彩による表現へと画風を変化させていった。
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そして、今回また、アンリ・マルタンの『入江・コリウール』という作品に巡り合った。
マティスの作品の中にも見られた特徴的な塔が、今回のマルタンの作品にも見受けられる。
じつは、先述した、「シダネルとマルタン展」にもコリウールの風景を描いた作品が3点出展されていた。
マルタンは1923年に、コリウールに新しく家を購入しており、そのため、コリウールの絵が多く描かれたということになる。
ちなみに、調べてみたところ、この独特のデザインをもつ塔は「ノートル・ダム・デ・ザンジュ教会」の鐘楼らしい。港に建てられているので灯台の役目も果たしたということだ。
あまり、万博との関連を期待していったわけではなかった松岡美術館だったが、思わぬ発見があった。
内田祥三と東京大学医科学研究所の建築群
じつは、松岡美術館の近くにある、東京大学医科学研究所のキャンパス内の建築も今回はみたいと思っていた。
このキャンパス内にある「旧公衆衛生院」の建築は内田祥三(うちだ よしかず、1885-1972)の設計である。この建物は現在、港区立郷土歴史館になっている。
内田祥三は、冒頭述べた1923年関東大震災の後、耐震・耐火建築研究の成果をもって東京帝大のキャンパス内の多くの建物を設計した。
東大本郷キャンパス内の安田講堂、東大図書館など、本郷キャンパスの多くの建物は彼の設計である。
さらに、内田祥三は、1939/40年ニューヨーク万博、また、同じ年に開催された1939/40年サンフランシスコ万博の日本館の設計も手掛けている「万博関連人物」でもあった。
(1939/40年サンフランシスコ万博の日本館は伊東忠太(1867-1954)、大熊喜邦(1877-1952)と共同設計)
内田祥三はその後、1943年には東大の第14代総長になる人物でもある。
この2つの万博の日本館も将来の東大総長が設計したものだったのだ。
さらに、先述した「シダネルとマルタン展」が開催されたSOMPO美術館の横にそびえ立つ損保ジャパン本社ビル(当時は安田火災海上本社ビル、1976。内田祥三逝去後の完成)の設計者でもあった。
そして、この東京大学医科学研究所のキャンパス内の建築も、100年前に発生した1923年関東大震災の後、耐震・耐火建築研究の成果をもって設計されたものである。
やはりいろいろと調べていくと、身の回りには万博関連のものが多い。
この東京大学医科学研究所のキャンパス内の建築の視察状況については、またの機会にご紹介することにしよう。