明治美術狂想曲
さて、静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)である。
静嘉堂は三菱グループ創設者の岩﨑彌太郎の弟、彌之助と岩﨑小彌太によって創設された美術館である。(詳しくは公式ホームページをご覧いただきたい。)
そして、創設130年の2022年10月、東京丸の内の、重要文化財・明治生命館1階にて展示活動を始めた。
今回、訪れたのは「明治美術狂想曲」という特別展
会期は2023年4月8日(土)〜6月4日(日)
ここは、丸の内のビジネス街に昨年オープンしたスペースだが、規模的にはそう大きくもなく、気軽に訪れることができる貴重な美術館である。
昨年のオープン展も訪問し、今回も出ていた「曜変天目」なども見た。
さて、今回は、明治美術ということで、明治期の海外の万博に関連したものがあるのではないか、という期待で訪問することにした。
やはり、万博出展の常連も含め、見どころ満載である。
「美術」という言葉が作られた!
今回の展示の「第一章」は <「美術」誕生の時 ― 江戸と明治のあわい−> と題されている。この「あわい」という言葉はあまり通常はつかわれないが、「あわい」は漢字では「間」で、物と物とのあいだ、事と事との時間的なあいだ、といった意味合いである。つまり江戸と明治の間、といったような「第一章」であるが、図録によると、次のようにある。
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明治五年(一八七三)、新政府がウィーン万国博覧会に参加するため、その出品規定を翻訳した際に「美術」という言葉が作られた。現代でも広く使用されている「美術」の誕生である。
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明治時代は、いろいろな外国語が日本において漢字に「翻訳」されたが、その一つ「美術」が作られたきっかけが、1873年ウィーン万博だった、ということだ。
ネットで調べてみると、女子美術大学の石井拓洋氏の資料を見つけた。その資料「『美術』の語史〜『美術』という日本語はいつ誕生したか? 当初のそれは何を指していたか?」によると次のようなことらしい。この資料の出展は、高階秀爾「美術」、『ブリタニカ国際大百科事典16』による、とのこと。以下、引用する。「※」は石井氏による補足や考えとのこと。
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・「英語からの翻訳であり、この訳語を考えたのは大鳥圭介(※西洋軍学者、官僚、外交官)であったとされる。」
・日本で初めて『美術』の語が登場するのは、明治5年(1872)、国民へのウィーン万博への出品勧誘のための官令。
・「音楽画学像ヲ作ルノ術詩学等ヲ美術ト云フ」 (※音楽、絵や像をつくる技術的仕事、詩を作ることなどを美術という )
・「音楽画学像ヲ作ルノ術詩学等ヲ美術ト云フ」 (※ 明治五年 1872, 官令 )
(※音楽、絵や像をつくる技術的仕事、詩を作ることなどを美術という)
・「興味深いのは、右に引用した官令の注記でも明らかなように、
当初は『美術』は、『音楽』や『詩学』なども含めた『芸術』全体を意味するものと解されていたことである」
・「このこと (※『美術』が『藝術』 全体を意味していたこと) は、十九世紀後半において、英語のFine Artがきわめて広い意味に用いられていたことと対応するであろう 」
・「しかし、最初に登場してから五年後の 一八七七 (明治十) 年には、すでに 『美術』は今日とほぼ同じ意味をもつものなっている」
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この「国民へのウィーン万博への出品勧誘のための官令」というものの原本を調べてみたが、ちょっとネット上では見つけきれなかった。国会図書館かどこかで次回トライするしかないかもしれない。
河鍋暁斎(1831-1889)の「地獄極楽めぐり図」(1869~72)
さて、この第一章で目を引くのは河鍋暁斎(1831-1889)の「地獄極楽めぐり図」である。
図録(P11)には次のようにある。
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江戸・日本橋の小間物問屋勝田五兵衛(家紋は沢瀉紋)の娘田鶴(たつ)が明治二年(一八六九)三月十日に十四歳で早世した。本作は、その追善供養のため、勝田が河鍋暁斎(一八三一〜八九)に依頼した画帖である。田鶴が来迎した阿弥陀三尊に導かれ、冥界の各所を巡り、先祖に再会するなどして、極楽に到着、往生するまでのプロセスを描く。
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ということで、三途の川を渡り、芝居を楽しんだり、いろんなところをめぐって、極楽に到着して往生する、という何枚もの絵からなる画帖となっている。
愛する娘を亡くした父親の切ない気持ちが伝わってくる作品である。
娘は亡くなってしまったが、亡くなった後、芝居などいろいろなことを楽しみながら極楽に行ってほしい、という願いが伝わってくる。
さて、この河鍋暁斎も万博に関係した画家である。Bunkamuraのサイトには「河鍋暁斎とは」というページがある。
この河鍋暁斎年表によると、1873年(明治6年)には次のようにある。
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ウィーン万国博覧会に出品するために
「鷹、蛇、雉の相食はんとする図」を描くも
期日までに完成しなかったが、同博覧会の装飾のために
大幟「神功皇后・武内宿禰の図」を依頼されて制作。
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また、1876年(明治9年)のところには、次の記述がある。
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フィラデルフィア万国博覧会に「枇杷栖ノ鳥図」
「中世歌妓ノ図」を出品。
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また、今回の図録には
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岩崎家の邸宅を設計した英国人建築家・ジョサイア・コンドルが入門したことでも知られる。
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とある。ジョサイア・コンドル(1852-1920)は明治時代に来日し、現在の東京大学工学部で西洋建築学を教えた人物であり、鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館などを設計した人物である。
そんな人物が河鍋暁斎に弟子入りしていたとは、なかなかこれも面白いエピソードである。ちなみに、毎週土曜日が稽古日だったらしい。
柴田是真『変塗絵替丼蓋』(1873)
次に展示してあるのが、柴田是真『変塗絵替丼蓋』(1873)である。
柴田是真(1807-1891)は、図録によると「江戸時代後期から明治期に活躍した漆芸家兼絵師」である。
この『変塗絵替丼蓋』では、漆を使って、「木目はもちろん、蓋の上を歩く蟻さえも漆芸で表現している」(図録より)とういことで、この木目や蟻まで漆芸ということに驚く超絶技法である。
柴田是真は、「明治六年、ウィーン万国博覧会に『富士田子浦蒔絵額』など五点出品」(図録より)
ということで、彼もまた、万博に出展した人物であった。
この展覧会では「第二章」に、柴田是真作の印籠が数点、また「第三章」には『柳流水蒔絵重箱』
が展示されていた。
実は、2004年〜2005年に東京、大阪、名古屋で開催された、「2005年日本国際博覧会開催記念展 世紀の祭典 万国博覧会の美術」展にも、柴田是真の作品『扇面蒔絵飾棚』(1889)が展示されていた。
その時の解説(万国博覧会の美術展図録P130)には次のようにある。
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明治には蒔絵師の多くが他の画家の図案を用いて作品を仕上げたが、画家であった柴田是真は自らの図案により作品を制作した。(中略)日本政府が初めて公式参加したウィーン万博に、早くも蒔絵による額を完成させ出品したことは是真の業績として特筆される。(以下略)
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ちなみに、この『扇面蒔絵飾棚』は是真83歳の時の作品で、ウィーン万博の日本サイドの「澳国博覧会事務局」副総裁だった佐野常民(総裁は大隈重信)が所蔵していた物だったということである。
さて、この柴田是真であるが、1873年ウィーン万博に出品して「進歩賞」を受賞している。
その後、1876年フィラデルフィア万博にも出品しメダルを獲得、また、1889年パリ万博にも出品し、金メダルを獲得したということである。(@Press「省亭・暁斎・是真~パリ・フィラデルフィア万博、 海を越えた明治の日本美術~」開催による)
1873年ウィーン万博の「進歩賞」とは
ちなみに、この1873年ウィーン万博の「進歩賞」であるが、これはなんであろうか。
実は、金、銀、銅メダルといった褒賞システムは近代オリンピックがその最初ではなく、1801年の第2回フランス内国博覧会でナポレオンによって制度化されたものであるといわれている。それを万博が継承し、それにヒントを得たクーベルタンが近代オリンピックにも取り入れた物である。
ところで、当時は万博ごとにその賞が定められていた。
例えば、第一回の1851年ロンドン万博では、表彰という意味では「評議員牌(カウンシル・メダル)」、「賞牌(プライズ・メダル)」という2種のメダルが制定された。(<17>話参照)
1855年パリ万博では、「金」、「銀」、「銅」、「選外佳作」のメダルが授与されることになったが、結果的にはその上に「グランプリ」が設けられた。
そして、1873年ウィーン万博では、「美術」「新趣向」「進歩」「協力」「栄誉」の5種のメダルが設定されたのである。この柴田是真が受賞したという「進歩賞」とは、この5種のうちの一つだったわけだ
その後、1876年フィラデルフィア万博では、「ブロンズメダル」一種類とされた。なので、上記の「1876年フィラデルフィア万博にも出品しメダルを獲得」の「メダル」とは、その一種類しか設定されていなかった「ブロンズメダル」を獲得した、ということになる。
その他の万博関連展示
さて、今回の展覧会には上記以外にも万博関連の展示がある。
まず、『薩摩焼 色絵金彩獅子鈕香炉』(1876頃)である、図録解説によると、「本作と酷似する作品が、明治九年(一八七六)、フィラデルフィア万国博覧会に出品され、現在、フィラデルフィア美術館に所蔵されている」とある。フィラデルフィア美術館のHPをあたってみたが、残念ながらそれと思われる作品の画像には辿り着けなかった。
次が、野口幽谷(1827-1898)の『菊鶏図屏風』(1895)である。
図録によると、「・・・明治時代になるとウィーン万国博覧会、第一回内国勧業博覧会に出品」とある。この野口幽谷という画家も万博に出品した経験をもつ人だった。
さらに、すでに以前何度かご紹介した三代清風与平、鈴木長吉、濤川惣助、黒田清輝などの作品も出品されている。
鈴木長吉(1848-1919)については、『十二の鷹』を1893年シカゴ万博に出品したということを以前ご紹介したが、今回の図録には下記のような説明がある。
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・・・十八歳で独立し、明治七年(一八七四)、起立工商会社の鋳造監督に就任。明治十一年(筆者注:1878年)、パリ万国博覧会に《孔雀大香炉》(現在、V&A博物館蔵)を出品し金賞を受賞するなど、鳥類をモチーフにした金工品で好評を博した。(以下略)
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黒田清輝については今回は「腰巻事件」で有名な『裸体婦人像』が出品されているが、図録には次のような解説がある。
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本作は、黒田が明治三十三年(一九○○)から翌年にかけて二度目の渡欧中に描かれた。というのも、同年のパリ万国博覧会に黒田が出品した作品(《智・感・情》など)を師であるラファエル・コランに批判され、奮起して本作を描いたと言われる。(中略)奮起した甲斐あってか、コランは「なぜこの作品を博覧会へ出さなかったのか」といったことを黒田は回想している。(以下略)
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《智・感・情》は万博で銀賞を取った作品だが、師であったラファエル・コラン(<16>話参照)には、《智・感・情》を含む作品群(『湖畔』も含むはずである)は、不評で、この『裸体婦人像』は好評だった、ということらしい。正直、筆者にはよく違いがわからない。この『裸体婦人像』はルノアールの影響も感じられるような気もする。
いずれにしても、この作品は1901年の第6回白馬会に出品されたが、警察の指導で下半身を布で覆って展示された。それが有名な「腰巻事件」である。当時のヌード画に対するアレルギーを如実に表すエピソードであろう。