MRT宮崎放送「都心の中の故郷 宮崎県東京学生寮」という番組
先日、中学校時代のグループラインで、「都心の中の故郷 宮崎県東京学生寮」というタイトルのMRT宮崎放送制作の番組が、Tverで見ることができる、という情報が上がった。
説明には次のようにある。
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宮崎から上京した若者を市ヶ谷の宮崎県東京学生寮は半世紀に渡り見守り続けましたが、このたび老朽化のため建て替えられる事になりました。県出身の学生を見守ってきた寮の歴史とは・・・。毎週日曜日21時からの「VIVANT」主演の堺雅人さんもこの学生寮のOB!当時の生活を語ってくれています。 (太文字は筆者による)
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この施設は市ヶ谷の一等地(千代田区九段南)にある宮崎県の施設で、公式には「宮崎県東京ビル」という建物である。
市ヶ谷駅から行くと、「帯坂」を上って、「二七通り」にあたって、その通りを東に少し行くと左手に見えてくる。
じつは、このビルは2代目であり、初代は1956年に完成したものだという。
この2代目ビルは1972年3月31日に完成したものである。
宮崎県の情報によると、この建物は2棟からなっているらしい。
「宮崎県東京ビル」の概要
この「宮崎県東京ビル」の概要は次のように書かれている。
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A棟
職員宿舎24戸
延床面積2,636.81㎡
階数・構造 地下1階地上8階建
B棟
学生寮50室・職員寮10室 貸しオフィス・会議室
延床面積3,708.57㎡
階数・構造 地下2階地上10階建
備考:両棟は地下階や1階、5階等でつながっており、建物構造上は1棟形式となっている。
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学生寮は定員100名で、二人部屋となっていた。
さっそくこの番組を見てみたところ、この2代目ビルも老朽化により建て替えられることになったとのこと。
番組途中、堺雅人さんのインタビューもそれなりの時間、紹介されていた。
堺さんは筆者と同じ高校の出身で、同じように高校卒業後上京したと思われるが、この寮での当時の想い出は多いらしく、懐かしそうに語っていらっしゃった。
今年2023年7月中旬取り壊し工事が始まったとのことで、2026年秋に3代目が完成する予定である。
新しい3代目は一人部屋でこれまで男子学生しか入寮できなかったが、女子学生も入れるようになるという。
筆者と「宮崎県東京ビル」
筆者は1977年、受験で初めて上京したおり、この施設にお世話になった。
泊まったビルの隣に、学生寮があったのも覚えている。
つまり当時は、A棟の職員宿舎の方に泊めていただいた、ということだろう。
(学生寮には残念ながら入っていない)
初めての東京で泊まった場所であり、思い出深い建物である。
今回のニュースの前にも、何度か市ヶ谷方面に行く用事があると、ビルを確認したりしていた。
今回、壊される前にと思い、視察に行ってみた。
建物はすでに少し壊されていたが、なんとか外観の全貌はカメラに捉えることができた。
じつはこのビル、当時からなかなかモダンなデザインだなあ、と思っていた。
しかし、建築家が誰かなどとは調べたことはなかった。
だが、今回このMRTの「都心の中の故郷 宮崎県東京学生寮」を見て、なるほど!と思った。
番組内で、このビルの建築家が簡単ではあるが紹介されていたのだ。
1937年パリ万博日本パビリオンの建築家による設計
その名前は坂倉準三(1901 – 1969)。
坂倉は東京帝国大学を卒業しているが、建築学科ではない。
文学部に入学し、文学部美学美術史学科を卒業している。
その後、前川國男の紹介で、あのル・コルビュジエの建築設計事務所に入る。
そして、1937年パリ万博の日本パビリオンを設計したのである。
坂倉準三は1969年に亡くなっている。一方、「宮崎県東京ビル」は1972年の竣工である。
どういう経緯で宮崎県が坂倉準三にこのビルの設計を依頼することになったのかは不明である。(坂倉は岐阜県出身であり、とくに宮崎県との地縁は認められない)
しかし、いずれにしても、このビルは、坂倉がデザインし、その後亡くなってから完成した、ということになろう。
1937年パリ万博
1937年パリ万博は1937年5月25日〜11月25日まで開催された。
英語名称はInternational Exposition of Arts and Technology in modern lifeというものであり、
テーマは「現代生活の中の美術と技術」。
参加国数は45。3104万人という莫大な入場者を集めた。
この万博ではパブロ・ピカソがスペイン共和国パビリオンに『ゲルニカ』を、ジュアン・ミロは『刈り入れ人』を展示したことで有名である。
その他、プティ・パレにおいて、1937年パリ万博の一環として6月から10月まで開催された「独立美術の巨匠たち1895-1937展」(「巨匠展」)に、ピカソは『アヴィニョンの娘たち』を、アンリ・マティスは『夢』『赤いキュロットのオダリスク』(ともに2023年に東京都美術館で開催された「マティス展」に出展された)などを出展した。
日本からはミキモトが『矢車』という帯留めを出展したのもこの万博である。
トロカデロ宮がたっていた場所にシャイヨー宮が建てられ、エッフェル塔をはさんで、ドイツパビリオンとソ連パビリオンがその高さを競うように両側にたっていた。
坂倉準三の日本パビリオン
そんな中、日本パビリオンの設計は坂倉準三に任されたのである。
そのデザインは、写真をみて確認できるように、これまでの日本パビリオンのイメージ(神社、仏閣のような)を全く感じさせないモダンなデザインだった。
すでに1925年パリ「アール・デコ博」はその12年前に開催され、坂倉が師事したル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー・パビリオン(新精神館)」が話題となっていた。
しかし、この1925年段階では、まだ日本パビリオンは従来通り、日本家屋風のものである。
この坂倉準三の「日本パビリオン」は、まったくそれまでの日本館のテイストと異なり、1925年アール・デコ博時の、ル・コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー・パビリオン(新精神館)」によく似ている。
<44>でご紹介した内田祥三の、1939/40年サンフランシスコ万博、同じくニューヨーク万博の日本パビリオンが、また以前に戻って伝統的な神社仏閣系であったことを考えると、この坂倉の試みは大変冒険的なものだったといえよう。
ここからは想像だが、やはり、坂倉のデザインには保守派からは反対も多かったと思われる。これだと無国籍的で、「日本」と一眼でわかりづらい、ということから内田祥三には、もとのテイストで、というオーダーが入ったのかもしれない。
いずれにせよ、上京初日に泊まったのが、1937年パリ万博の日本パビリオンを設計した坂倉準三の作品だった、というのは筆者にとって46年経ってようやく気づいた万博との接点であった。
やはり、身の回りに万博に関することはあふれている。
そうあらためて感じた一日だった。