万博を尋ねるニューヨークの旅は続く
ニューヨークといえば、数々の観光資源、文化資源の宝庫であるが、やはり美術館というのも外せないところだろう。
そこで、いよいよニューヨークの美術館、あるいは、美術館が所蔵している作品と万博の関係をみていくことにしよう。
ニューヨーク近代美術館(MOMA)へ
そこで、まずは万博にゆかりのあるニューヨーク近代美術館(MOMA)の誇る名品に触れてみたい。
ピカソ『アヴィニョンの娘たち』
その作品とは
ピカソ『アヴィニョンの娘たち』
に他ならない。
この作品はバルセロナのアヴィニョン通りにあった娼婦宿の娼婦5人を描いたものといわれ、またこの作品はキュビスムの発端とされる記念碑的な作品である。
この作品と万博の関係については、
<32>「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」展① ならびに
<34>ピカソ『アヴィニョンの娘たち』は万博に出展されていた!?
で詳しく述べた。
筆者の独自調査によれば、これまでこの作品と万博の関係が特に語られたことはないが、どうも1937年パリ万博に出展されているようなのである。
1937年パリ万博といえば、そのスペイン共和国館にあの名作『ゲルニカ』が出展されてことが有名であるが、じつは、このキュビスムの嚆矢となった『アヴィニョンの娘たち』も出展されていたのである。
ちょっと長くなるが、<34>からその部分を引用しする形で改めてご紹介しよう。
*
・・・そのことは、<26>現在開催中の「マティス展」とマティスの万博出展作品でご紹介した「独立美術の巨匠たち1895-1937展」のカタログからわかる。
このカタログには、マティスの他にも多くの我々の知る画家が登場している。
つまり、我々の知る多くの画家が1937年パリ万博に参画した、ということになる。
たとえば、、、
アンリ・ルソー、シニャック、ヴラマンク、ドラン、ルオー、マリー・ローランサン、ヴァン・ドンゲン、ヴァロットン、モーリス・ドニ、エミール・ベルナール、ヴュイヤール、ボナール、デュフィ、ロダン、ピカビア、デ・キリコ、スーティン、モディリアーニ、シャガール、ユトリロ、ブラック、レジェなどである。
「独立美術の巨匠たち1895-1937展」(「巨匠展」)カタログの中に『アヴィニョンの娘たち』を発見!
そして、ピカソはこの「独立美術の巨匠たち1895-1937展」(「巨匠展」)に32点の作品を出展している。
そして、筆者が、その32点のリストをチェックしていたところ、その9番目に
『Les Demoiselles d’Avignon』(『アヴィニョンの娘たち』)
を「発見」したのである。
上述したように、ピカソ『アヴィニョンの娘たち』について、いろいろな資料からは万博と関連づけられた記述はみつけることができない。
しかし、「巨匠展」カタログ、という万博の公式な印刷物には、ちゃんと
『Les Demoiselles d’Avignon』(『アヴィニョンの娘たち』)
と記述してあるのだ。
調べたところ、同じタイトルの絵が他にある、という事実も認められない。
果たして、『アヴィニョンの娘たち』は、本当に1937年パリ万博の『巨匠展』に出展されたのだろうか?
『アヴィニョンの娘たち』が制作されてからニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されるまで
そもそもこの『アヴィニョンの娘たち』は1907年に、パリのモンマルトルの「洗濯船」《Bateau-Lavoir》と呼ばれた集合アトリエ兼住宅の中で制作された。
しかし、ピカソは作品完成後何年も、この作品を自分のアトリエに保管しており、一般に公開はしていなかった。周囲の反応も否定的なものが多かったらしい。
その後、1916年になってやっと「サロン・ドートンヌ」で展示されたのである。
これが、はじめてこの作品が公になったとき、ということになる。
この時の展示スペースは、あのポール・ポワレ(1879-1944)によって提供されたという。
ポール・ポワレは、<19> マリー・ローランサンとモード」展でご紹介したとおり、当時「ファッション界の帝王」と呼ばれた人物で、マリー・ローランサンの親しい友人(恋人)であったニコル・グルーの兄だった人物である。ポール・ポワレには三人の妹がいて、その一番下の妹が、ニコル・グルーだった。
ただし、『アヴィニョンの娘たち』の「写真」は1910年に、”The Architectural Record”(『建築記録』)の”The Wild Men of Paris, Matisse, Picasso and Les Fauves”(『パリの野生人、マティス、ピカソ、そしてフォーヴ』)というGelett Burgess(ゲレット・バージェス)による記事の中で出版され、一般に公開されていた。
ネット上に公開されている情報その他によると、その後は以下のような経緯をたどることになる。
1916年の次にこの絵が一般公開されたのは、1918年にパリのポール・ギョーム美術館でピカソとマティスを特集した展覧会であった。しかし、この展覧会や絵画に関する情報はほとんど存在しない。
その後、この絵は丸めた状態でピカソの手元に残り、1924年にデザイナーのジャック・ドゥーセ(Jacques Doucet 1853 – 1929)に25,000フランで売却された。
ドゥーセとピカソの間では、話がついた日の翌月から、合計が25,000フランに達するまで、ピカソは毎月2,000フランを受け取ることになる、ということであった。(結局、ドゥーセは合意価格以上の3万フランを支払った。)
ジャック・ドゥーセは1929年に死去し、『アヴィニョンの娘たち』はドゥーセ夫人が所有することになった。
そして、1937 年のパリ万国博覧会が閉幕する約 1 か月前の 1937 年 9 月 15 日、この絵はジャック・ドゥーセ夫人によってジャック・セリグマン& カンパニーに 150,000 フランで売却された。
その後、1937 年 11 月、ニューヨーク市のジャック・セリグマン & カンパニー・アート・ギャラリーは、『アヴィニョンの娘たち』を含む「ピカソの進化の 20年、1903 ~ 1923 年」と題した展覧会を開催した。
同年、MoMAが『アヴィニョンの娘たち』を購入。取引は1939年に終了した。
MoMAは、1939 年 11 月 15 日から40年3月3日まで「ピカソ: 彼の芸術の 40 年」という重要なピカソ展を開催した。この展覧会は、MoMAの初代館長に27歳という若さでで就任したアルフレッド H. バール Jr. (Alfred H. Barr Jr. 1902–1981)によって企画された。
この展覧会には、1937 年の主要な絵画『ゲルニカ』とその習作、『アヴィニョンの娘たち』を含む 344 点の作品が展示された。
MoMAのホームページでもこの作品の履歴をダブルチェックしてみよう。MoMAの『アヴィニョンの娘たち』のページには次のようにある。
This work is included in the Provenance Research Project, which investigates the ownership history of works in MoMA’s collection.
(この作品は、MoMA のコレクションにある作品の所有履歴を調査する来歴調査プロジェクトに含まれています。)
そして来歴が次のように記述されている。
The artist, Paris. 1907 – 1924
Jacques Doucet (1853-1929), Neuilly (Paris). Purchased from Picasso in February 1924 – 1929
Madame Jacques Doucet (Jeanne Roger), Neuilly. 1929 – September 1937
Jacques Seligmann & Co., New York. Purchased from Madame Doucet in September 1937
The Museum of Modern Art, New York. Purchased from Seligmann, through the Lillie P. Bliss Bequest, in 1937. Transaction completed in 1939
これはMoMAによってまとめられたこの作品の所有の履歴である。要約すると
1907-1924 ピカソ(作者)
1924-1929 ジャック・ドゥーセがピカソより購入
1929-1937 ジャック・ドゥーセ夫人が相続
1937 ジャック・セリグマン&カンパニーがドゥーセ夫人より購入。
1937 MoMAがリリー・P・ブリスの遺贈によりセリグマンから購入。
1939 取引終了
上記では、「1937 年のパリ万国博覧会が閉幕する約 1 か月前の 1937 年 9 月 15 日、この絵はジャック ドゥーセ (1929 年に死去)の未亡人によってジャック・セリグマン・ギャラリーに 150,000 フランで売却された。」とあり、1937年パリ万博のことには言及されているが、この万博にこの作品が出品されたかどうかの明確な記述はない。
1937年パリ万博の「巨匠展」(6月から10月まで開催)に『アヴィニョンの娘たち』は展示されており、展示された状態のまま取引が成立した可能性もある。
このように、時系列をたどっていくと、1937年パリ万博の「巨匠展」に『アヴィニョンの娘たち』が出展されたとしても矛盾はない。
いずれにしても、「巨匠展」のカタログに作品名が載っており、他の事実と時系列的な矛盾がない。また、反証の事実も今のところはない。
ということは、『アヴィニョンの娘たち』もまた万博出展作品であった、というのが一応の結論、といってもいいのではないだろうか。
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これはなぜか一般に語られていないが、筆者の調査により事実である確度は高いと思っている。
このような背景の知識をもって、ふたたびこの作品に相対すると、また一層の感慨を覚えるのである。