読売新聞のオンライン・ニュース
本日、6月11日(日)の読売新聞のオンライン・ニュースに次のような記事を発見した。
「中銀カプセル、サンフランシスコ近代美術館が収蔵…元住民ら保存の23個が各地に」
という見出しである。
この記事からさらに引用させていただく。
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同ビルは建築家、黒川紀章(1934~2007年)の代表作で、1972年完成した。計140個の住居用カプセルで構成され、取り外して交換できる設計だ。社会の成長に合わせ、複製・量産化できる日本発の建築運動「メタボリズム」を象徴する建築とされる。
だが老朽化が進み、解体案が浮上。保存を望む声も出たが、取り壊された。その後、元住民らで作る「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」(前田達之代表)が、カプセル23個を取り出して修復した。
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実は、筆者のこの「中銀カプセルタワービル」には以前から注目していた。
このビルはいろいろなテレビ番組等でも取り上げられていたし、解体することが決まった時にも大きなニュースになった。
しかも、このビルは筆者の勤めていた会社の、大きな道路を隔てたすぐ横に立っており、筆者は勤務先のビルの43階の廊下から、その解体の様子を定期的に撮影していたのである。
今回は筆者が撮っていた写真シリーズの一部ではあるが、解体工事のプロセスがわかる定点写真をご紹介しよう。
ご覧のように、2022年4月から解体工事が始まり、10月の頭にはすでに取り壊され、平地になっていた。そして、この状態がしばらく続くことになる。
「中銀カプセルタワービル」と1970年大阪万博
さて、これに関連して、もう一つ情報を見つけた。
それは「カプセル建築の系譜」というサイトだ。(文:鈴木敏彦、作図:石間克弥、 写真:山田新治郎、編集:杉原有紀
初出誌:工学院大学建築系同窓会誌『NICHE Vol. 44』「黒川紀章のカプセル建築」《pp.24-55、Opa Press、2020年3月20日》より引用)
ここには、1970年大阪万博との関連情報も出ている。
以下、引用させていただく。
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黒川紀章は1969年に「カプセル宣言」を発表し、1970年の大阪万博でそのコンセプトモデルである「空中テーマ館住宅カプセル」を展示し、1972年にホモモーベンスのための集合住宅「中銀カプセルタワービル」を社会実装した。勢いそのままに翌1973年、万博で発表した住宅カプセルのコンセプトを、自らの別荘「カプセルハウスK」として実証した。しかし、居住単位としてのカプセル建築はそれ以降造られることはなく、その系譜は途切れたと思われた。しかし1979年、世界初のカプセルホテル「カプセル・イン大阪」が既存のサウナ・スパの建物の上階に誕生した。カプセルベッドの原型は既に大阪万博の住宅カプセルの個室ユニット内の箱状のベッドルームに見られる。つまり、カプセルは建築ではなくインテリアとして息を吹き返したのだ。(以下略)
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こうしてみると、この中銀カプセルタワービルは、1970年大阪万博にすでにそのコンセプトが登場していたもので、万博と関連していたものであることがわかる。
また、この記事によるとカプセルホテルも大阪万博から生まれたものであるといえそうだ。
やはり万博は、いろいろなものに影響を与えている。
「中銀カプセルタワービル」と1967年モントリオール万博
さらに、筆者が初めてこの「中銀カプセルタワービル」を見た時、「これって、1967年モントリオール万博の『アビタ67』に似てるなあ」、と思った。
モントリオール万博とは、1967年にカナダのモントリオールで開催された万博である。
この万博はカナダ建国(1867年7月1日)100周年を記念して開催された万博でBIE(博覧会国際事務局)が1928年条約で規定する「第1種一般博覧会」ある。この1928年条約で規定する「第1種一般博覧会」というのは、一番大規模な万博であり、このモントリオール万博以外では、1935年ならびに1958年のブリュッセル万博、1970年大阪万博しかない。その後は1972年修正条約で規定された分類となっていく。
この万博には1970年大阪万博の直前に開催された「第1種一般博覧会」、ということで日本からも多くの関係者が訪れていた。
参加国、国際機関数は62
会場面積は400ha
そして、入場者数はなんと5031万人という巨大な万博であった。
テーマは「人間とその世界」。このテーマはサン・テグジュペリの著作『人間の土地(Terre des hommes )』で展開された彼の哲学に基づいて定められた。
そしてこのテーマは基本的な4つの区分が定められた。
その基本的な4つの区分とは、次のようなものである。
マン・ザ・エクスプローラー
マン・ザ・プロデューサー
マン・ザ・クリエーター
マン・ザ・プロバイダー
そして、このテーマプレゼンテーションの一環として2つの展示が追加された。
そのうちの一つが、『アビタ67』である。(もう一つは「ラビリンス館」とよばれたものであった。)
『アビタ67』
この『アビタ67』(Habitat 67のフランス語読み)であるが、これは、プレハブ・コンクリート・ボックス158個からなる実験的なアパートであった。
コンセプトは単純で、一つのボックス型の住宅ユニットを別の住宅ユニットの上に重ねて建てていき、あるユニットの屋根が次の家の庭を形成する、というものだった。
一つ一つのユニットは工場の生産組立ラインで建設され、現場で巨大クレーンを使って所定の位置に設置される、というコンセプトだった。
ユニットの屋根が上のユニットの庭を形成する、というのは中銀カプセルタワービルとは異なったコンセプトだが、住宅ユニットを作ってそれを積み上げていく、というのは基本的に似通ったコンセプトである。結果のビジュアルも似ている。
この設計を担当したのが、当時まだ20代だったモシェ・サフディ(Moshe Safdie, 1938~ )である。
サフディは1938年7月14日にハイファ(英国委任統治領パレスチナ《現イスラエル》)で生まれ、アメリカ、カナダ、イスラエルの国籍を持つ建築家である。
彼は15歳の時に家族と共にモントリオールに移住することになる。そしてマギル大学で建築を勉強している時に「三次元モジュラー建築システム」という論文を書き、その後、その論文をプロジェクト化するように論文顧問から言われて、それが『アビタ 67』になった。
この『アビタ 67』を起点として、彼はさまざまなプロジェクトに携わるようになっていく。
最近では、シンガポールのアイコンとなった、3つの高層ビルを一番上部に船のような形の構造物を置くことで連結したマリーナ・ベイ・サンズ(2010)や、屋内の巨大な滝のような、屋内では世界一の高さを誇る「レイン・ボルテックス」で知られるジュエル・チャンギ空港(シンガポール 2019)などの設計で知られる。
中国では、重慶にラッフルズ・シティ(2020)を完成させた。これは、マリーナ・ベイ・サンズをさらに拡大したようなもので、8棟の高層ビルからなり、6棟は250m高、2棟は350m高である。そのうちの250m高の4つの高層ビルの上に水平の「クリスタル・スカイブリッジ(The Crystal skybridge)」という、少しカーブした構造物がのっかっているというものである。
マリーナ・ベイ・サンズの最高部が高さ200mということで、高さも規模もそれを上回っている。
『アビタ 67』が建てられた1967年モントリオール万博。
その時から半世紀が経っても、その設計者であるモシェ・サフディは、世界の建築の第一線で大活躍しているのである。