夏目漱石『虞美人草』に登場する「博覧会」
先日、『明治文学小説大全』の夏目漱石(1867-1916)作の『虞美人草』を約40年ぶりくらいで読みかえした。
夏目漱石といえば、1984年から2007年まで発行された千円札にその肖像が使われていたほどの国民的大作家である。
その漱石が職業作家となって書いた最初の作品が、この『虞美人草』だが、今回読み直してみるとなかなか深い小説である。
職業作家になって初めての作品、ということで、文章も相当凝ったものになっている。
この難しい小説を40数年前の筆者が読んだとき、どの程度この内容が理解できたかは疑問だ。
まあ、当時はあまりわからないながら、目を通して読んだつもりになっていた、ということだろう。
ちなみに『虞美人草』というのは「ヒナゲシ」のことである。
このふたつの単語の印象の違いにはちょっと驚いてしまう。
また、実は、再発見とでも言おうか、この作品には、当ブログの読者なら関心の高いだろう「博覧会」という言葉が頻繁に出てくるのである。
当然、40年前筆者がこの作品を初めて読んだ時には、この「博覧会」という言葉もそのまま漫然と読み流しており、特別の関心を抱くこともなかったし、それが記憶に残ることもなかった。
さて、この作品に頻繁に出てくる「博覧会」という言葉、具体的には何回この作品に登場しているのだろうか。
筆者が今回読んでいる『明治文学小説大全』は電子版なので、検索機能を活用して調べると、この作品中、なんと22回も「博覧会」という言葉が登場していることがわかった。
しかも、主だった登場人物が7人とも博覧会場に同時に登場したりする。
「博覧会」という舞台、ならびにそのコンセプトがこの作品中で重要なモチーフになっているように思えるのである。
そしてそれは、漱石の抱いていた文明論的なものにも結びついているように思える。
この作品に登場する「博覧会」とはどの「博覧会」のことか?
さて、ここに出てくる「博覧会」というのは、はたしてどの博覧会のことだろうか。
実はこの『明治文学小説大全』というのは、明治時代の主だった作家(例えば夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、二葉亭四迷、樋口一葉、高山樗牛、泉鏡花、尾崎紅葉、有島武郎など)の作品50編を年代順に掲載しているという大作である。
ちなみに、この『明治文学小説大全』にも収められている有島武郎の『或る女』では、1901年バッファロー万博でのマッキンリー大統領暗殺について触れられている。
この発見については<7>岸田首相襲撃のニュースに万博を想うで以前ご紹介した。
じつはこの小説には1904年セントルイス万博のこともちらりと登場している。
それはさておき、この『虞美人草』は1907年(明治40年)のところに収納されている。
1907年作、ということは、ここで登場する「博覧会」というのはそれ以前のもの、ということになる。
1907年にはまだ日本で「万博」は開催されていないことから、まずは、1877年(東京)、1881年(東京)、1890年(東京)、1895年(京都)、1903年(大阪)で開催された5つの内国勧業博覧会のどれか、と推察するところから始める。
しかし、作品の中に、「日露戦争に勝利した」、といった内容がでてくるので、日露戦争(1904-1905)が終わった1905年以降のものだろう。そしてこの小説の完成は1907年。
とすると、1905年、1906年、1907年のいずれかの年に開催された博覧会であり、この小説の内容から、かなり大規模な博覧会であったことがわかる。
小説中には、「不忍池」(しのばずのいけ)も会場の一つで、「台湾館」(台湾は日清戦争後の1895年から第二次世界大戦終了の1945年まで50年間日本の統治下にあったので当時は「外国館」ではなかった)や、「外国館」、「三菱館」も出展していた、といった記述も確認できることから、1907年に開催された「東京勧業博覧会」がそれではないか、という推定が成り立つ。
そこで、「東京勧業博覧会」を調べてみる。
Wikipediaには、次のような記述が認められる。
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東京勧業博覧会(とうきょうかんぎょうはくらんかい)は1907年(明治40年)、上野公園で行われた博覧会である。
概要
主催は東京府。政府主催の内国勧業博覧会(第6回)が1907年に予定されていたが、日露戦争後の財政悪化により延期されたため、東京府が主催して博覧会を開催することになった。会期は1907年3月20日から7月31日まで、来場者は約680万人であった。
上野公園を第1会場、不忍池畔を第2会場、帝室博物館西側を第3会場として開催された。
不忍池のイルミネーションやウォーターシュート、観覧車などが評判になった。イルミネーションは(既に第5回内国勧業博覧会に登場しているが)夜の会場を楽しむ観客が多数集まり、夏目漱石の小説『虞美人草』の舞台にもなった。(太字は筆者による。以下同様)
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その他の情報も当たってみたが、やはり、この「東京勧業博覧会」で間違いないようである。
「東京勧業博覧会」とは
さて、もう少し詳しくこの博覧会を調べてみよう。
国会図書館の資料の中に、『東京博覧會案内』というものを見つけた。
この資料によると、この博覧会の経緯としては、
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・・・東京府会は三十八年十二月十一日を以て、東京府下に製作品大共進会を開設するの意見書を決議し、之と殆ど相前後して、東京勧業協会及東京実業組合聯合会より一の建議案を呈出せり。是に於て東京府庁は明治四十年三月二十日を以て、博覧会を東京市上野公園に開くことに決せり。称して東京勧業博覧会といふ。会長は東京府知事男爵千家尊福(せんげたかとみ)、副会長は東京市長尾崎行雄、審査総長は男爵曽根荒助なり。(資料中の旧漢字は現代漢字に変換、カッコ内のふりがな、太字は筆者による。以下同様)
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とある。
以下、会期、建造物については、
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会期 東京勧業博覧会の開期は、明治四十年三月二十日に始まり、同年七月三十一日に終る。
建造物 総額百三十五万円の経費を投じて、大小十六棟の陳列館、及奏楽堂、演芸場等を建設したる外、新に三個の橋梁を架設せり。即ち不忍池の西茅町より弁天島に通ぜる長さ九十五間の観月橋一也。屏風坂上に架せる木橋凌雲橋二也。凌雲院の北裏に架せる改造設計中の模造日本橋三也。
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とある。
会場については、3つの会場があるとして、次のような説明がある。
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第一会場 上野公園内帝国博物館前の竹台全部と其東なる凌雲院の北部及東部に亘れる東四軒寺跡を以て之に充て、三会場の中央にありて面積最も広く、北は屏風坂より美術学校に至る道路を境とし、屏風坂の上に木造の凌雲橋を架して両大師の東なる貴賓接待所に通じ、西は動物園前の広場に隣り、南は黒門通竹台正面に至り、東は高台を限る。1981坪
第二会場 第二会場は不忍池の西北隅に在り。旧馬見所跡を中心とし、西は藍染川に、東北は上野花園町に南は、不忍池に限られ、自然の寰区をなす。
第三会場 帝国博物館と帝国図書館との間なる茗荷山にあり。面積最も狭し。
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では、この『虞美人草』に出てくる舞台は、具体的にはこの3つの博覧会場の中のどこなのだろうか。
夏目漱石と博覧会
さて、その前に、夏目漱石と博覧会とのかかわり、ということを考えてみたい。
この小説で「博覧会」というものを重要な要素として取り上げていることでもわかるように、漱石は「博覧会」というものに相当な関心をもっていたと思われる。
上記のように東京で3回、京都、大阪で1回ずつ、内国勧業博覧会が開催されているので、そのどれかに漱石が行った、ということも考えられる。
残念ながら現状、漱石が内国勧業博覧会を訪れたといった情報は得られていない。
しかし、漱石は「万博」には訪れていたのである。
この件は、拙著『万博100の物語』でも第11話、第26話で紹介した。
漱石はロンドン留学に向かう途中、1900年10月21日〜28日にパリに滞在し、当時開催中だった第5回パリ万博を見ているのである。
『虞美人草』で登場人物たちを驚かせる「イルミネーション」もこの時に見ている。
そもそも、万博における夜の光のショーは、1889年の第4回パリ万博から始まったものである。
『万博100の物語』第26話「夜を昼に変えた男、エジソン」から引用する。
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また、エッフェル塔が建てられた1889年第4回パリ万博では、大がかりな電気照明でこそ可能になった、夜のスペクタクルショーが始まる。1万もの白熱電球と1500のアーク灯を組み合わせたショーが、毎晩9時から開催されたのである。エッフェル塔は3色のサーチライトでパリ市の半分を照らしだしたという。現在、どんな万博でもおこなわれる夜の光のショーは、この万博から始まったといえる。
万博の夜間開場も、エジソンが1879年に発明した白熱電球によってこそ、可能になったのだ。
この万博で、エジソンは10万ドルのコストをかけ、493点の新発明全部を展示し、以後「光の王様」と称されることになる。さまざまなイラストが残っているように、蓄音機のデモンストレーションも大成功をおさめ、多くの人々の関心を呼んだのだった。
これ以降、1893年シカゴ万博でも、電気によるイルミネーションは規模が拡大され、1900年第5回パリ万博ともなると、もはや電気による照明は当然のこととなっていく。コンコルド広場にもうけられた記念門・ビネ門だけでも、3200の白熱電球と40のアーク灯で照らされ、会場全体ともなると、1万6000個の白熱電球、300のアーク灯が使用されていたという。いったい誰が数えたのか、という感じだが、昼間のように明るくなったことは当時の人々には驚愕の的で、ロンドン留学へ向かう途中、洋画家の浅井忠と時を同じくしてパリに立ち寄った夏目漱石は、このパリ万博を見て、「銀座ノ景色ヲ五十倍位立派ニシタル者ナリ」と書いている。
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このように、当時の世界の中心・パリの万博本場のイルミネーションは漱石に強い印象を与えたに違いない。この鮮烈な経験が、『虞美人草』において「東京勧業博覧会」を舞台とし、「博覧会」に象徴的な意味を与える、といった構想に結びついたのかもしれない。
ちなみに、この1900年パリ万博では、漱石はエッフェル塔にも上っている。
再び『万博100の物語』第11話「最初は蒸気、次は水圧、エレベーター」から引用する。
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1900年第5回パリ万博では、日本から訪れた夏目漱石もエッフェル塔に上った。漱石は、この万博のことを、その年、明治33年10月23日、自宅宛の書簡で次のように書いている。
「今日ハ博覧会ヲ見物致候ガ大仕掛ニテ何ガ何ヤラ一向方角サヘ分リ兼候 名高キ『エフエル』塔ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申候 是ハ三百メートルノ高サニテ人間ヲ箱ニ入レテ綱条ニツルシ上ゲツルシ下ス仕掛ニ候 博覧会ハ十日や十五日見ニモ(テモ)大勢ヲ知ルガ積ノ山カト存候」
日本でも1890年、すでに浅草の凌雲閣に初めて電動式の近代的エレベーターが設置されてはいたものの、この世界一高いエッフェル塔のエレベーターには、漱石も相当驚いた様子である。
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さて、「夏目漱石と博覧会」についてはいったん、これくらいにしておいて、次話では、具体的に『虞美人草』に登場する「博覧会」に関する記述を見ていくことにしたい。