2024年7月3日に新紙幣が発行
今年2024年7月3日(水)、一万円、5千円、千円の3種類の新紙幣が発行された。
新紙幣に変わるのは20年ぶりだという。
今回は、一万円札が渋沢栄一、5千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎という顔ぶれである。
この原稿を書いている日は7月7日だが、筆者の手元にはまだ新紙幣は届いていない。
今は、キャッシュレスが進み、現金自体にいつ触ったか覚えていないくらいなので、実際に手に取ってみるのはいつになるかわからない。
もしかしたら、また20年後に更なる新紙幣が出るまで触らずじまい、ということも可能性としてはありうるのかもしれない。
さて、今回取り上げるのは一万円札になった渋沢栄一(1840-1931)である。
が、その前に、今回渋沢栄一にその座を譲った福沢諭吉(1835-1901)にも触れておかねばなるまい。
旧一万円札の福沢諭吉と万博
福沢諭吉も万博には関わりのある人物だった。
1862年にはロンドンで第2回目となる万博が開催された。
第1回目はもちろん1851年に開催された世界初のロンドン万博である。
この万博には日本の工芸品600点以上が出展されていた。
これは、英国の初代駐日公使オールコックという人物が、自分で日本の工芸品を選定して出展したものだった。
今もロンドンにその名を残すデパート「リバティー」の創始者アーサー・リバティーは、この展示を見て影響を受け、出展物の一部を買い取ってビジネスを始めたといわれている。
この1862年ロンドン万博には、日本からの文久使節団の面々36人が、視察に行っている。そのメンバーに入っていた福沢諭吉は、帰国後、その著書『西洋事情』の中で万博について、
と書いている。
今から162年前に本場ロンドンの万博を見て、すでに「博覧会」という名詞を使っているのである。
「キリスタル・パレース」を訪れた福沢諭吉
そして、この時、福沢諭吉は、1851年第1回ロンドン万博で会場となった、ジョセフ・パクストン(1803-1865)設計の「クリスタル・パレス」(水晶宮)も見ている。
ロンドン郊外のシデナムの地に移設された「クリスタル・パレス」
この時、「クリスタル・パレス」はすでにロンドン郊外のシデナムの地に移設されていた。
移設されたのは1854年。「常設の万博」を実現すべく、もとあったハイドパークから移されたのである。
シデナムに再建された「クリスタル・パレス」は、サイズも大きくなり、塔もつけ加えられるなどして、市民の憩いの場になっていた。ヴィクトリア女王とアルバート公夫妻もしばしばここを訪れた。
福沢諭吉は日本の文久使節団の一員として、1862年にシデナムでこの「クリスタル・パレス」を見ている。
福沢の日記『西航記』には、5月5日に「キリスタル・パレース」を訪れたことが記されているのである。
この「キリスタル・パレース」(クリスタル・パレス)は実は1936年まで、福沢が訪れたシデナムの地に存在していた。
しかし、警備員の火の不始末から、焼失してしまったのである。
以前、筆者はその地を訪れて見たことがある。
ロンドンの中心ヴィクトリア駅から南部の郊外へ向かって30分ほど電車に揺られると、その名も「クリスタル・パレス」という駅がある。
駅員といえば券売ブースに1人しかいない、田舎風の小さなこの駅から少し歩くと、広い公園へと出る。数々のスポーツ施設があるかと思えば、妙に古びた恐竜の像があちこちに立っていたりするゾーンがあり、さらに行くと、草に覆われた広大な土地が忽然と姿を現す。
ここに、かつて移設された「クリスタル・パレス」が建っていたのである。
そして、この地に福沢諭吉も立って、「キリスタル・パレース」の実物を見たのである。
今も残る苔むした石のテラスや、半分地面に埋まった建物の基礎部分らしき大きな石、寂しげに佇む焼けた彫刻の女性像などから、われわれは福沢諭吉がその目でみた「キリスタル・パレース」を想像するしかないのだ。