新一万円札の渋沢栄一
さて、2024年7月3日に新規発行された新一万円札である。
今回は、福沢諭吉から渋沢栄一へと変わった。
渋沢栄一(1840-1931)は、生涯において500もの企業設立などにかかわり、「日本近代社会の創造者」とも「日本資本主義の父」とも言われる。
渋沢栄一は1840年(天保11年)、農家に生まれながらも幕末には徳川慶喜の家臣となり、大政奉還時(1867年)には慶喜の弟昭武に随行してヨーロッパに滞在し、西洋の知識を広く習得中であった。
渋沢栄一と1867年パリ万博
この時、渋沢は徳川慶喜の命により、当時数えで14歳だった慶喜の弟、昭武に随行してパリでは開催2回目となる1867年パリ万博を訪れたのである。
この万博には1851年ロンドン万博の「クリスタル・パレス」の約1.5倍という広さの楕円形の巨大展示館「シャン・ド・マルス宮」が建設され、その中で蒸気機関、水力エレベーター、クルップ社の50トンの大砲、モールスの電信装置、スエズ運河プロジェクトなどが展示されていた。
また、画家では、作品4点を会場内で展示したが独自に会場外個展も開いたギュスターヴ・クールベ(1819~1877)や、万博会場内には展示できず万博会場対岸で独自に個展を開いたエドゥアール・マネ(1832~1883)等が活躍していた時代である。
そんな中で、江戸幕府として公式にパリ万博に出展スペースを設けて参加したのである。
なお、このパリ万博には江戸幕府に加えて薩摩藩と佐賀藩もあたかも独立国であるかのように出展しており、いろいろと物議をかもした。
2021年にNHKで放送された大河ドラマ『青天を衝け』は渋沢栄一が主人公であり、このパリ万博を訪れたシーンも描かれていた。
その中で、渋沢栄一が「シャン・ド・マルス宮」の屋上までエレベーターで乗って上がったシーンがあったが、そのエレベーターはフランス人レオン・エドゥーの水圧式エレベーターであった。
エドゥーのエレベーターは、この万博のメインビルディング「シャン・ド・マルス宮」の高さ25メートルの屋根に備えつけられた通路まで、荷物ではなく来場者を実際に運ぶ役割を果たした。
当時、こういう方法で高いところに上る経験を持たなかった民衆にとって、このエドゥーのエレベーターは驚異で人気の的となったという。
さぞかし、渋沢栄一も驚いたに違いない。
なお、この『青天を衝け』第22話では、あまり本筋とは関係ないパリの景色を描くシーンで、今もパリにかかる「アレクサンドル3世橋」が一瞬出てくる。
だが、この橋は1900年パリ万博のときにかけられた橋であり、1867年当時には存在しているはずがなかったものである。
NHKに問い合わせてみたところ、時代考証ミス、ということであった。
ちゃんと誤りを認めるところはさすがである。
しかし、前述のように「アレクサンドル3世橋」も1900年パリ万博の関連事物であり、エッフェル塔なども含め、パリの情景には今も万博関連事物が多く含まれているのである。
渋沢史料館
東京・王子駅近くには「渋沢史料館」がある。
ホームページによると次のようにある。
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渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡地に建つ。栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示し、関連イベントなども随時開催。旧渋沢庭園に残る大正期の2棟の建築「晩香廬」「青淵文庫」の内部公開も行う。
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2021年秋、筆者もこの史料館を訪れてみた。
中には渋沢栄一関連の年表、史料が数多く展示され、非常に興味深かった。
1867年パリ万博の招待状や、渋沢栄一・杉浦譲共著の「航西日記」、また、これも万博の関連人物としては欠かせないトーマス・エジソン(1847-1931)と一緒に写っている集合写真など一級の史料が目白押しであった。
また、近くでは、当時放送されていた『青天を衝け』関連の企画展示もあり、非常に楽しむことができた。
この展示では、1867年パリ万博の江戸幕府展示の様子が再現されていたた。
今の単独パビリオンとは比べ物にならない小さな展示ブースであるが、これが初めて万博に日本が公式に参加した端緒であったのだ。
1873年ウィーン万博では養蚕書を編纂
さて、1867年パリ万博に現地まで行って携わった渋沢栄一だが、その後も約50年にわたって万博には縁が切れない人生だった。
たとえば1873年ウィーン万博の際には、養蚕書を編纂する、という形で万博に携わっている。
渋沢史料館を運営する「渋沢栄一記念財団」は「渋沢栄一伝記資料」という貴重な史料を整備している。
その中の、渋沢が民部大蔵両省仕官時代の1872年(明治5年)2月20日のところには、
という記述が見うけられる。
澳国博覧会とは1873年ウィーン万博のことである。
万博に出展した日本の物品や現地で入手した貴重な物品が、帰国の際、ニール号の沈没によってその多くが失われた、あの万博である。
当時、ヨーロッパでは蚕の病気が大流行して生糸が圧倒的に不足していた。
あのパスツールがその研究のためファーブルを訪れた話は
<78>ファーブル生誕200年と万博
に書いた通りである。
このヨーロッパを席巻していた「カイコのコレラ」といわれていた病気のため、日本の養蚕業への関心も高かったようだ。
それに応える形で渋沢が責任者となって養蚕書を編纂した、ということである。
渋沢とパスツール、ファーブルも万博を通じてつながっていたことがわかる。
その後も万博に携わった渋沢栄一
渋沢はその後も、実際に会場まで足を運んだ1915年サンフランシスコ万博(パナマ太平洋万博)にいたるまで様々な万博に関与している。
この辺りの話については、長くなるのでまた次の機会に譲ることにしよう。