「万博と赤十字〜日赤発祥の原点は万博にあり〜」展
現在、東京港区芝大門の日本赤十字社本社1階にある「赤十字情報プラザ」で大変興味深い展覧会が開催中である。
そのタイトルも
まさに万博の歴史に興味のある人にとっては必見の展覧会といえよう。
この情報は東京都港区のコミュニティ情報誌「キスポート」から得ることができた。
港区コミュニティ情報誌「キスポート」は、 港区が設立した公益法人「公益財団法人港区スポーツふれあい文化健康財団」が発行するコミュニティ情報誌であり、いろいろと耳寄りな情報が掲載されている。
その2024年11月号にこの赤十字情報プラザの情報が全1ページを使って紹介されていたのである。
(このPDFはネットからダウンロード可能である)
さて、この展覧会であるが、
開催期間は2024年10月1日から2025年10月30日まで。
2025年大阪・関西万博の会期をはさんだ、時宜を得たタイミングで開催されている。
事前予約制で火・水・木のみ観覧できる。
共催は赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表部 とある。
見学は無料である。
筆者は昨年2024年12月に行ってみた。
予約が少し面倒ではあったが、希望の日時にすんなり予約することができた。
赤十字本社の1階で観覧の旨を伝えると、わざわざ赤十字情報プラザの方が迎えに来てくれた。
小ぶりな展示スペースではあるが、親切にご案内いただき、筆者のマニアックな質問にも丁寧に答えたいただいた。
なかなか貴重な展示である。
万博と赤十字運動の関係
ちょっとここで赤十字、日本赤十字と万博の関係をおさらいしておこう。
このブログでも以前少し触れた。
では万博と赤十字、ならびに日本赤十字社の関係について軽く触れた。
その時の記述を下記引用する。
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(前略)
ちなみにこの日本赤十字社は1873年ウィーン万博で事務総長を務めた佐野常民(1822~1902)が設立したものである。
1867年パリ万博を佐賀藩の代表として訪れた佐野が、そのパリ万博にパビリオンを出展していた「国際赤十字」のパビリオンを「発見」し、その結果、日本でも創設したものであった。
日本赤十字社も万博のおかげでできたともいえるのである。
(後略)
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また、拙著『万博100の物語』(ヨシモトブックス)でも3話(22話、23話、24話)にわたってこの話をご紹介している。
そこから概略を述べた部分を下記引用する。
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佐野常民が「国際赤十字」を「発見」
そしてこの第2回パリ万博は、社会的に影響のあるさまざまなものが誕生するきっかけも与えた。
スイス人の実業家アンリ・デュナン(1828~1910)は、1859年のイタリア統一戦争の際、ソルフェリーノの戦場を旅して、たくさんの戦傷病者が医療を受けられない悲惨さに衝撃を受けた。
篤志家を募って救護活動を組織し、それを機に、戦時の傷病者を救援する国際運動を起こし、人道的な国際条約の締結を訴えた。
その結果、1864年、16カ国の政府代表がジュネーブに集まって、内12カ国によってジュネーブ条約が締結され、「国際赤十字」が誕生することになる。その「国際赤十字」が初めて万博にパビリオンを出したのが、この1867年第2回パリ万博だった。
そして、このパビリオンの展示を見たのが、日本から来た佐賀藩の藩士、佐野常民(さのつねたみ 1822~1902)である。
佐野は第19話、第21話にも登場したが、日本(江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩)が初めて出展した万博の際に、佐賀藩の責任者としてパリに来ていたのである。また、その後、1873年ウィーン万博では、日本の澳国(おうこく)博覧会事務局副総裁も務めることになる人物である。
彼はこの「国際赤十字」の展示に大変な感銘を受けたらしい。
さて、その後佐野は1867年のパリ万博から10年後の1877年西南戦争で、政府軍と西郷軍の間の悲惨な戦場の様子を見て、日本にも赤十字のような組織を設立する必要があると痛感した。そしてこれが、日本赤十字創設のきっかけとなる。
佐野らは1877年に「博愛社」を設立する。さらに1886年、日本政府もジュネーブ条約に加入し、翌1887年、「博愛社」は名称を「日本赤十字社」と改称することになるのである。
(後略)
*
東京港区芝大門の日本赤十字社本社には、この日本赤十字社初代社長である佐野常民の像がアンリ・デュナンの像と向かい合うかたちで展示されている。
なかなか立派な像である。
佐野常民と赤十字と万博
佐野は日本赤十字の設立のみならず、日本での博覧会開催も提案している。
渋沢栄一が徳川昭武に随行して訪れた1867年のパリ万博に佐賀藩代表として参画した佐野は、その次の万博である1873年ウィーン万博にも「澳国博覧会事務局副総裁」として現地を訪れた。
(総裁は大隈重信。しかし大隈は現地を訪れることはなかった。)
当然万博にも大きな関心をもっていた佐野は、1873年ウィーン万博から帰国すると早速1875年、万博と博物館の重要性を訴えている。
1851年ロンドン万博とその利益で作られた「サウス・ケンジントン」にできた博物館「ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム」等の例を引きながら、「翌1876年にはアメリカのフィラデルフィアで万博が開催される予定なので、皇紀2540年、西暦1880年に日本で大博覧会を開催し、その後博物館を建設する」ことを提案しているのである。
場所も上野一帯、とある。
都市計画と、それにあわせて万博を起爆剤として開催する、といった、現代に通じる政策を当時から提案していたことは、佐野の万博経験に基づいた並々ならぬ知力を感じさせる。
その後、万博ではないが、1881年に東京上野で開催された「第2回内国勧業博覧会」でも佐野は副総裁に就任している。
佐野の提案は、1877年「第1回内国勧業博覧会」、1881年「第2回内国勧業博覧会」、そして、その会場跡地で、現在、博物館や美術館が設置された「上野公園」として実現しているといえよう。
佐野常民はその後、1877年に「博愛社」を設立。
その9年後の1886年に政府はジュネーブ条約に加入し、1887年、「博愛社」も「日本赤十字社」と改称して佐野が初代社長に就任する。
日本赤十字社の仕事はずっと全くの無給だったという。
佐野は引き続き農商務大臣などいろんな官職につきながら、1867年パリ万博以来の思いである赤十字運動を一生をかけて推進したのである。
このように、日本の赤十字運動の祖である佐野は、同時に日本の博覧会運動の祖ともいえる人物であった。
一説によると、「元祖博覧会男」と呼ばれていたともいう。
その佐野常民の像を見ると、いつのまにかタイムスリップして1867年パリ万博や1873年ウィーン万博の会場に誘われてしまっているような感覚に襲われるのであった。 (<122>につづく)