内田祥三設計「上海自然科学研究所」
「上海自然科学研究所」は1931年(昭和6年)4月から1945年(昭和20年)の終戦時まで14年間、上海に存在していた研究所である。
じつはこの研究所も内田祥三(うちだよしかず、1885-1972)の設計によるものであった。
以前もご紹介した『内田祥三先生作品集』(以下『作品集』)によると、この建築物については下記のようなコメントがある。
ちなみに、この『作品集』によると竣工は1930年(昭和5年)である。
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当時、外務省に文化事業部というものが置かれ、その事業の二つの大きな計画として,北京に人文科学,上海に自然科学の両研究所を建設することになり、自然科学研発所は内田先生に委ねられたのである。先生の計画された研究所の中でも最大規模の一つである。労力は現地で調達されたが、資材のほとんどを、日本から選んだといわれる。
ゴルフ場にもなりそうな広大な敷地に東大のなかで研究しているような気分になれる、巨大な建築が造られた。
すでにしばしば言及してきたように、先生はここでもまず、機能ごとに分化したブロックの配置を考えられたが、前に述べた数々の研究所のと同様に一体のものとなった。結局はその方が先生の好みに合っていた、と言って差支えないだろう。理学部の天体観測施設など同一建築内に納めるには不適当なものを除いて、可能な限りこの建物内に収容された。
建設された場所が、中国の上海ということを失念させるほど、東大関係建築デザインに似ているのも、同じ先生の作ということだけでなく、“東大のような”という研究者たちの強い希望があったからである。故清水幸重氏、故高岡春三郎(大正14年東大卒)両氏の大きな協力があった。
(太文字は筆者による、以下同)
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「義和団事件」の賠償金で建てられた「上海自然科学研究所」
この研究所の成り立ちは、1900年に始まった「義和団事件」に端を発する。
この反キリスト教的拝外運動である「義和団事件」を利用し、清国の西太后は、1900年6月21日、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ロシア、ドイツ、オーストリア、そして日本に対して宣戦布告した。
しかし、8カ国の連合国の近代的な軍には対抗すべくもなく、宣戦布告後2ヶ月も立たないうちに連合国は北京を制圧してしまう。
そして、翌1901年、清国政府と連合国の間に講和が成立し、清国は連合国へ4億5000万両(テール)の賠償金を払うことになった。
そして、この賠償金が「上海自然科学研究所」の設立の資金源となるのである。
この研究所はときに日本による「文化侵略」の拠点とみなされることもあったが、研究所に在籍した研究者は概して、純粋に日中協力して「中国発展のために」自然科学の研究をすすめよう、と思っていたらしい。
戦禍が大きくなる中で自由な雰囲気で研究ができるということで、「夢園(ドリームランド)」と呼ばれていたらしい。(『上海自然科学研究所 科学者たちの日中戦争』(佐伯修)による)
そういった思惑からか、この研究所は日本人の多かった共同租界の北の方の虹口地区ではなく、フランス租界の中に建てられた。
場所は祁斉路と徐家匯路のあたりである。
当時の住所は、「上海法租界祁斉路320号」
これは、今の岳陽路、肇嘉浜路のあたり、ということになる。
ちなみに、「祁斉」とは、ギッシュというフランスの名前に漢字を当てたものということである。
『上海自然科学研究所 科学者たちの日中戦争』によると、次のようにある。
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研究所の本館は、当初、伊東忠太、内田祥三の二人に設計が任され、それに上海委員会から入澤、山崎、大河内の三名が参画してプラン作りが行われた。この作業はかなり早くから行われ、一応の結論を見たが、1926(大正15)年2月の地質調査で、計画していた地下室の建設が困難なことが判明する。設計は内田の主導で練り直されて28(昭和3)年に完成し、地元の建設会社「新林記」が63万7千両で建設を請け負って、30(昭和5)年9月に竣工する。ただし、内装などが完成したのは、開所から4ヶ月後の31(昭和6)年8月だった。
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なんと、あの伊東忠太(1867-1954)も当初は設計に関与していたのだ。
伊東忠太といえば、大倉集古館、築地本願寺や、現・一橋大学の兼松講堂、東京大学正門などを設計した建築家であり、1940年、月島一帯を会場として開催されるはずだった「幻の万博」(第二次世界大戦のため中止)の「会場計画委員会」の委員にも名を連ねている人物であった。
『上海自然科学研究所』を訪れた人たち
さて、この研究所は、日中戦争前から第二次世界大戦終結までという、相当きな臭い時代に存在した施設であったが、いろいろな人たちが、ここを訪れている。
『上海自然科学研究所 科学者たちの日中戦争』によると、次のようにある。
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しかし、この研究所の存在を近現代史の流れの中でみると、そこに、多様な歴史的人物や事件との接点が垣間見えることも事実だ。魯迅、胡適、蔡元培といった中国の大知識人たち。ゾルゲ事件の共犯者として処刑される尾崎秀美。全アジア規模のユートピアを企画した怪僧、大谷光瑞。アインシュタインと並ぶ理論物理学の巨匠ニールス・ボーア。そして近代日本科学史上最大の暗部の担い手である「七三一部隊」の石井四郎 ― 研究所の廊下を歩いた、これら訪問者の一部の名を列挙しても、そこには意外な取り合わせが見られる。
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「七三一部隊」の石井四郎(1892-1959)も訪れていたとは、いろいろな想像を掻き立てられる。
なにしろ、上海自然科学研究所の研究部門の中には「細菌学科」というものもあったのである。
この「上海自然科学研究所」を舞台とした小説としては、上田早夕里『破滅の王』がある。
この作品は、この上海自然科学研究所を舞台として、細菌兵器の開発をめぐるエキサイティングな物語である。上記、「七三一部隊」の石井四郎も登場する。
この「上海自然科学研究所」にご関心のある向きには『上海自然科学研究所 科学者たちの日中戦争』とともにおすすめの書籍である。
今も上海に「優秀歴史建築」として残る「上海自然科学研究所」
じつは、「上海自然科学研究所」は1945年の終戦時に閉所しているが、内田祥三が設計した建物自体は今も残っているのである。
「上海自然科学研究所」は実は広大な敷地内に、職員の宿舎等様々な建物が建てられていた。
『作品集』には詳しく述べられていないが、内田祥三が設計したのはこの「上海自然科学研究所」の中のメインとなる「本館」である。
Googleマップで調べてみると、今、ここには「生物化学与細胞生物学研究所」という名前がみうけられる。
そして、その建物はまさに、東大キャンパスにありそうな「内田ゴシック」様式の建物なのである。
今、その建物には、「優秀歴史建築」(Heritage Architecture)というパネルが設置されている。
内容は下記の通りである。
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优秀历史建筑
Heritage Architecture
岳阳路320号
原为上海自然科学研究所(日本利用庚子赔款建造),中央研究所。
内田祥三[日]设计, 钢筋混泥土结构,1930竣工。平面日字型,围
成两封闭院落,外观与日本东京帝国大学工学院大楼相似。立面强调
竖向线条。
Institute of Science; Central Institute. Designed by Uchita. Built in 1930.
Reinforced concrete structure.
上海市人民政府 1994年2月15日公布
Shanghai Municipal Government Issued on 15th Feb. 1994
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訳してみると下記のようになる。
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優秀歴史建築
岳陽路320号
元々は上海自然科学研究所(日本が庚子賠款を利用して建設)の中央研究所(本館)でした。
内田祥三(日本)の設計による鉄筋コンクリート造で、1930年に完成しました。
平面図は「日」の形をしています。
2つの囲まれた中庭に分かれており、その外観は日本の東京帝国大学工学部の建物に似ています。 ファサードは、縦の線が強調されています。
上海市人民政府 1994年2月15日公布。
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この文中の「庚子賠款」というのは、上記、義和団事件後の議定書によって申告に課せられた賠償金のことである。
また、この「上海自然科学研究所本館」は上から見ると日本の「日」に見えるので、そのことが解説中に書かれているわけである。
当時はこういったこと一つをとってもこの研究所は「日本の文化侵略の拠点」であるかのようにみなされたこともあったらしい。
じつは、『作品集』にある当初のスケッチをみると、必ずしもその時点では「日」というデザインにはなっていないことが確認できる。もっと大きなコングロマリット的な建物を目指していたことがわかるのである。
しかし、その後のいろいろな調整の中で、当初のデザインの中の中心部分だけが生き残った、ということだろう。
今も中国サイドの手により大切に保存されている「上海自然科学研究所」
実は、筆者は2010年上海万博の担当となったことで、2006年から2010年頃まで、年間100泊くらいのペースで上海を訪れていた。その後引き続き中国駐在になり、2017年まで10年くらい中国と付き合うことになった。
当初、定宿としていたのが、上海旧フランス租界にあるホテルだった。
旧フランス租界ということもあり、周囲は閑静な街並みで、プラタナスの並木がどこかフランスを思わせる。
じつは筆者が定宿としていたホテルは、この「旧上海自然科学研究所」とは歩いてすぐのところにあった。
しかし、残念ながら、当時はそんな近くにこんな貴重な建築物が、中国の上海政府の手によって「優秀歴史建築」として手厚く保存されている、ということなどは知らなかったのである。
したがって一度もその地を訪れたことはなかった。
今、中国を訪れるのはなかなか簡単ではないが(ビザを取るのに1ヶ月半かかる、という情報もある)、そのうち、また上海を訪れて現地を確認したいところである。
しかし、当面は難しそうなので、先日、近くに住む上海人の友人に、現地の写真を撮って送ってくれるように頼んでおいたところ、早速送ってくれたので、ここにご紹介したい。
たしかに「内田ゴシック」である。
細部にいたるまで、内田祥三のテイストが感じられる。
当時の敵国・日本によって、自国(清国)からの賠償金を使用する形で、日本の建築家による設計で建てられた建築にもかかわらず、この内田祥三設計「旧上海自然科学研究所」は、上海政府から「優秀歴史建築」に指定され、今に至るまで中国サイドによって、ずっと大事に保存され、使用されているのである。
こういった両国間の歴史を想う時、日中の関係がまた近い将来、劇的に改善することを望まないわけにはいかない。