<83>SOMPO美術館「ロートレック展」

1900 Paris
ロートレック展サイン photo©️Kyushima Nobuaki

SOMPO美術館で開催中の「ロートレック展」

現在、東京・新宿のSOMPO美術館でロートレック展が開催されている。

正式なタイトルは

フィロス・コレクション
ロートレック展 時をつかむ線

であり、会期は2024.06.22(土)- 09.23(月)である。

ホームページの案内には次のようにある。

19世紀末フランスを代表する画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864年―1901年)の展覧会です。ロートレックによる紙作品の個人コレクションとしては世界最大級のフィロス・コレクションより、約240点をご紹介します。フィロス・コレクションの最大の特徴である素描作品に始まり、ポスターを中心とする版画作品、雑誌や書籍のための挿絵、ロートレックが家族や知人にあてた手紙、ロートレックの私的な写真など、画家に肉薄した作品と資料で構成する展示です。

早速行ってみた。

「損保ジャパン本社ビル」

このSOMPO美術館の後ろに聳え立つ「損保ジャパン本社ビル」は、1976年5月、「安田火災海上本社ビル」として開業した。
以前はSOMPOミュージアムの前身である「東郷青児美術館」もこのビルの42階に入っていた。

今回の展覧会のサイン、SOMPO美術館(右後ろ)と「損保ジャパン本社ビル」(背面)
photo©️Kyushima Nobuaki

この、当時「パンタロンビル」とも呼ばれた下の方が広がっているデザインのビルは内田祥三(うちだ よしかず、1885-1972)の設計によるものである。
内田祥三は東大総長なども歴任した建築家であり、1939年ニューヨーク万博、また、同じ年に開催された1939年サンフランシスコ万博の日本館の設計も手掛けている「万博関連人物」でもある。(1939年サンフランシスコ万博の日本館は伊東忠太(1867-1954)、大熊喜邦(1877-1952)と共同設計)
内田祥三については<39>話<44>話でご紹介しているので、ご参照いただきたい。

この「損保ジャパン本社ビル」(「安田火災海上本社ビル」)はその内田祥三の最後の作品といわれており、1976年(内田の没後)に竣工したものである。

SOMPO美術館は2020年に本社敷地内に独立した建物を新築してオープンしたものである。
1987年にはゴッホ『ひまわり』を約53億円で落札して話題となった。
この『ひまわり』は企画展の時もだいたい最後に鑑賞することができるようになっている。

素描の多いフィロス・コレクション

さて、今回の「ロートレック展」はやはり、上記案内にあるように、フィロス・コレクションの特徴である素描作品が多い印象である。

ロートレック展サイン
photo©️Kyushima Nobuaki

思った以上に素描が多く展示されており、そしてポスター類も充実している。また書籍のための挿絵なども展示されており興味深い。

ロートレックとパリ万博

ロートレックといえば、19世紀後半、つまり、パリ万博が5回開催された時期にパリで活躍した画家である。
『ムーラン・ルージュ』等パリのキャバレーなどの風俗を描いた画家であり、その独特な画風によって日本でもファンが多い。

『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌宣伝ポスター
photo©️Kyushima Nobuaki

『エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて』
photo©️Kyushima Nobuaki

『ディヴァン・ジャポネ』(日本の長椅子)
photo©️Kyushima Nobuaki

『ジャヌ・アヴリル」(『ポスター傑作集』)
photo©️Kyushima Nobuaki

そんなロートレックとパリ万博の関係が気になるところである。

今回の図録の「年表」によると、
1889年(ロートレック24-25歳)のところに、

「春 パリ万国博覧会を訪れる。」

という記述と

1900年(35歳-36歳)のところに、

「3月 パリ万国博覧会で『リトグラフの110年回顧展』に出品。」
「11月 万国博覧会を見物。日本やジャワの踊りに興味を引かれる。」

とある。

筆者の所蔵する万博関連資料によると、1889年パリ万博には「ロートレックは展示されなかった」とあるので、1889年パリ万博には訪れて観覧したのみだった模様である。

しかし、1900年パリ万博時には上記のように参加、出展している、ということになる。
ちなみに、この『リトグラフの110年回顧展』については調べたが現時点では詳細な情報を得ることはできておらず、具体的にロートレックがどんな作品を万博に展示したのかは判明していない。
さらなる調査が必要である。

ピカソとロートレック

ちなみに、筆者の所蔵する万博関連資料によると、

パブロ・ピカソ(1881-1973)は1900年パリ万博を訪れ、ロートレックの作品を見た。

ということである。
また、ピカソ作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』はピカソがパリで初めて描いた絵であり、ロートレックの影響が大きい作品である。

ピカソは1937年パリ万博に『ゲルニカ』を展示したことで有名だが、この1900年パリ万博の時は、ピカソは『臨終』という作品を出展し、そのためにパリを始めて訪れたのであった。

このようにロートレックは万博を通じてピカソに影響を与えているのである。

ゴッホとロートレック

また、ロートレックと交流した画家にはフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)もいる。
この展覧会の最後には、いつものようにSOMPO美術館の誇るゴッホの『ひまわり』も展示されている。

ゴッホ『ひまわり』
photo©️Kyushima Nobuaki

その『ひまわり』の横には、いつもはない下記のような解説がつけられていた。

ゴッホとロートレック
ロートレックは、1882年からモンマルトルのフェルナン・コルモンのアトリエで学んでいました。4年後の1886年、このコルモンのアトリエに、ひとりのオランダ人がやってきました。フィンセント・ファン・ゴッホです。ゴッホはロートレックよりも11歳年長でしたがふたりは友情を育みロートレックはゴッホの肖像画を描き、ゴッホはロートレックを含めた仲間たちとのグループ展を企画しました。パリを離れ画家との共同生活を考えたゴッホに、移転先として南フランスのアルルを提案したのもロートレックと言われています。

さて、ゴッホの作品が万博で最初に展示されたのはいつか、よくわからない。どうも調べたところ、1900年パリ万博には出品された、という情報と出品されていない、という説がある。
少なくとも、筆者の所蔵する、1900年パリ万博の美術カタログにはゴッホの名前はない。

だが、その37年後の1937年パリ万博では展示されたという記録(証言)はある。
ボーボワール『女ざかり』には、

(1937年パリ万博博覧会において)「私たちはフランス美術の傑作の前に何時間もたたずみ、ゴッホの作品にあてられた数室ではもっとも長い時間を費やした」

という記述がみとめられる。
この万博が開催されたのは、ゴッホはとうに亡くなったあとだったが、ゴッホの作品に「数室」が割り当てられていた、というのは、ゴッホに関して評価が高まっていたことの証であろう。

今回の「ロートレック展」は、上記のようにピカソやゴッホのような万博に出展した作家にも思いを馳せることもできる、1889年パリ万博、そして1900年パリ万博の頃の時代を感じられる展覧会である。

 

 

 

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