スペインのイメージ 版画を通じて写し伝わるすがた
このところ暑い日が続いている。
筆者と助手0号が上野の国立西洋美術館に向かったのは2023年8月11日(金)、山の日である。
三連休の初日とあって、この暑い天候にもかかわらず、上野は外国人観光客を含め、すごい人混みであった。
予想外の人出で、チケット売り場も長蛇の列であった。
上野は今、東京国立博物館で「古代メキシコ展」、東京都美術館で「マティス展」が開催中である。「マティス展」についてはすでにこのブログ内でも紹介した。
「古代メキシコ展」にも実は先日行っており、その他、東京都現代美術館の「ディヴィッド・ホックニー展」、智美術館の「河本五郎展」などもすでに視察は終わっているので、ネタの渋滞中であるが、助手0号の希望で、この「スペインのイメージ展」を先にご紹介することにしたい。
この展覧会は、正式には
版画を通じて写し伝わるすがた
IMAGED AND IMAGINED
SPAIN SEEN THROUGH PRINTS
FROM JAPANESE COLLECTIONS
というものである。
国立西洋美術館の会期は2023年7月4日〜9月3日であるが、実はすでに2023年4月8日から6月11日まで、長崎県美術館で開催されていた。
「ごあいさつ」には、次のようにある。
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本展は、スペインに関わる版画制作の史的展開を17世紀初頭から20世紀後半までの長大な時間軸で概観し、写し伝えることのできる版画が、スペインの文化・美術に関するイメージの形成や流布にどのように貢献したか、約240点の作品から探るこれまでにない企画です。
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画家としては、リベーラからゴヤ、フォルトゥーニ、ピカソ、ミロ、ダリなどのスペインの画家に加え、ドラクロワやマネなどの「スペイン趣味」を描いた画家たちの作品もある。
万博に関係した画家も含まれるので何か新情報がつかめるかと期待できる。
それでは、早速「万博的視点」でこの展覧会を見ていくことにしよう。
1章
第1章は「黄金世紀への照射:ドン・キホーテとベラスケス REFLECTING ON TRADITION」というセクションである。
ドン・キホーテ関連の版画、ベラスケスにまつわる作品などが多く展示されている。
著者のミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)は英国のシェークスピア(1564-1616)とほぼ同時代を生きた人物である。暦もいろいろあるので不明ではあるが、Wikipediaによると二人とも1616年の同じ4月23日に亡くなっている。偶然とはいえ面白い。
それはともかく、17世紀、18世紀に制作された版画に加え、オノレ・ドーミエ(1808-1879)やこれもスペイン・フィゲーラス出身のサルバドール・ダリ(1904-1989)の作品(撮影不可)も展示されていた。
2章
2章は「スペインの『発見』 THE “DISCOVEERY” OF SPAIN」である。
外国から訪れてスペインを「発見」した人々に関する展示である。
例えば、ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)、エドゥアール・マネ(1832-1883)などである。
ドラクロワは1832年にスペイン・アンダルシアを旅し、ゴヤの作品を観ている。
マネは1865年にスペインを旅し、プラド美術館にも立ち寄っている。マネはスペインの大家であるフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)の影響を相当に受けた画家である。
有名なのはゴヤの『マドリード、1808年5月3日』(El tres de mayo de 1808 en Madrid、1814年)とマネの『皇帝マクシミリアンの処刑』(L’Exécution de Maximilien、1869年その他)の類似性だろう。
今回の展覧会でもゴヤの作品、マネの作品、そしてドラクロワの作品が展示されている。
マネ、ゴヤと万博の関係
マネといえば、万博に関していろいろなエピソードを残している。
マネは、パリで第2回目となる万博、1867年パリ万博に際し、『1867年のパリ万国博覧会』という、この万博の会場風景を描いた絵を残している。しかし、マネ自身の絵は万博には出展されず、自分で独自に個展会場を設置し、そこで『草上の昼食』『オランピア』などを展示した。
実は、ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)も同じように1855年パリ万博、1867年パリ万博で、万博会場外で個展を開催でしていたが、それにならったものであった。マネのこの個展は1874年に第1回が開催される「印象派展」の先駆けとなるものだった。
マネは1883年に亡くなるが、その後開催されたパリでの第4回目となる万博、1889年パリ万博において14点の遺作が万博美術展会場内で展示されることになった。
その中には『オランピア』『笛を吹く少年』等の我々のよく知る作品もそれに含まれていた。
ちなみに、この万博に出展されたマネの『オランピア』(Olympia 1863年)はアメリカに売却される、という話になっていた。それを聞いて、2万フランを目標にして募金活動をして海外流出を防いだ、という逸話を残しているのが、クロード・モネ(1840-1926)である。
また、この『オランピア』と、ゴヤ『裸のマハ』(1797-1800年頃)は構図が左右逆ではあるが、大変似ている作品である。マネはゴヤの『裸のマハ』に影響を受けて『オランピア』を描いた、という説もある。ただ、『裸のマハ』は一見してわかるようにスキャンダラスな作品であり、1901年に公開されるまでプラド美術館の地下に100年弱の間、しまわれてたという話もある。マネがこの作品を見る機会があったかどうかはよくわからない。マネがスペインに旅したのも1865年であり、『オランピア』作成の2年後である。
ちなみに、前述したように『オランピア』は1889年パリ万博出展作であるが、この『裸のマハ』(La Maja Desnuda)も『着衣のマハ』(La Maja Vestida)とともに万博に出展された作品である。
それは、時代も下って、1964/65年ニューヨーク万博。この万博の会場は、アメリカを代表するポップアートが満載であった。
建築界のモダニズムを代表する建築家フィリップ・ジョンソン(Philip Johnson, 1906-2005)が設計した「ニューヨーク州パビリオン」では、その壁画としてアンディ・ウォーホール、ジェームズ・ローゼンクイスト、ロイ・リキテンシュタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、エルズワース・ケリーなどのそうそうたるアーティストが作品を提供していた。
そんな現代アートにあふれた万博であったが、伝統的な芸術展示もあった。ミケランジェロ作『ピエタ』が1499年以来、初めてバチカンから持ち出され、「バチカン・パビリオン」Vatican Pavilionで展示された。
この世紀の展示の実現は、はJ.F.ケネディ大統領と、万博会社社長(Fair Corporation President)のロバート・モーゼス(1888-1981 Robert Moses)のローマ法王パウロ6世との交渉の成果であった。
また、あわせて「スペイン・パビリオン」では、ベラスケス、エル・グレコ、ピカソ、ミロの作品も展示され、加えてゴヤの『裸のマハ』『着衣のマハ』も展示されたのである。
オーウェン・ジョーンズとスペイン
さて、展覧会に戻ろう。
この2章では、オーウェン・ジョーンズ、ジュール・グーリ著「アルハンブラの平面、立面、断面、細部図集」(1842-45年)という本が展示されていた。
オーウェン・ジョーンズ(1809-1874)といえば、世界最初の万博である1851年ロンドン万博の会場「クリスタル・パレス」(水晶宮)の色彩関係を担当し、クリスタルパレスの鉄とガラスの素材をを赤、青、白、黄色で塗り分けたという建築家・デザイナーである(クリスタル・パレス自体の設計はジョセフ・パクストンによる)。このことは、<24>「ガウディとサグラダ・ファミリア展」でもご紹介した。オーウェン・ジョーンズは、当展図録P215によると1834年にはフランス人建築家とともにアルハンブラで建築や装飾デザインを模写したのである。そして、「1854年ロンドンのシデナムにアルハンブラのライオンのパティオなどを再現。また、1856年に全世界の装飾様式を収録した『装飾の文法』を刊行」とある。
このロンドンのシデナムのライオンのパティオというのは、1851年ロンドン万博でハイドパークに建てられたクリスタル・パレスが、1954年にシデナムに移築されたときに加えられたものに違いない。
(移築されたクリスタル・パレスは1936年に焼失した。しかしまだ残骸が残っている。)
筆者が以前シデナムを訪れた時の写真にその名残と思われるものがある。
また、『イリュストラシオン』もいくつか展示されていた。
『イリュストラシオン』というのはフランスの絵入り新聞で1843年から1944年まで発行された。
万博に関する絵も多いので、貴重な資料である。
今回は「1875年パリ、オペラ・コミック座でのビゼー『カルメン』初演評の挿絵、『イリュストラシオン』65巻1672号(1875年3月13日)、172頁」というものが目を引いた。
この資料は、見開きで展示されており、左ページにパリでの『カルメン』初演の挿絵がある。
しかし、筆者の目を引いたのはその見開きの右のページであった。
その下の挿絵のキャプションは
「L’EXPOSITION UNIVERSELLE DE PHILADELPHIE – LE PAVILLON DE L’AGRICULTURE」
というものである。
つまりこれは、1876年フィラデルフィア万博(米国)の「農業パビリオン」の絵なのである。
しかし、この『イリュストラシオン』は1875年3月13日付のもので、万博開始までは1年以上ある(フィラデルフィア万博会期は1876年5月10日から11月10日)。
可能性としては大きくは2つだろう。
何らかの理由でフィラデルフィア万博の「農業パビリオン」は開会1年以上前に完成していた。あるいは、このイラストは「農業パビリオン」の完成予想図である。
または、これも何らかの理由でこの『イリュストラシオン』の発行日付が間違っている、のどちらかだと思われる。
そこで、ビゼーの『カルメン』のパリでの初演のことを調べると、「1875年3月3日」であることがわかった。
ということは、はやり、『イリュストラシオン』の発行日付は正確であり、このイラストはフィラデルフィア万博の「農業パビリオン」の完成予想図である可能性が高い。
通常、万博ではパビリオン完成は開会ぎりぎりになることが多い(間に合わないことも珍しくはない)ことを身を持って知っている筆者としては、開会1年以上前に完成していたという確率はとても低いように思われるからである。
今回は展示されていないので読むことのできない、このイラストに関する文章を読めばわかるかもしれない。機会があったら追って究明していきたい。
しかし、どうしても万博関係の資料に目がいってしまうのは職業病だろうか。今回の展覧会テーマ(左ページの『カルメン』が展覧会として展示したかったもの)とは全く関係のないページなのだから。
3章
3章は「闘牛、生と死の祭典 BULLFIGHT, FESTIVAL OF LIFE AND DEATH」である。
このセクションでは、ゴヤにとって闘牛が生涯を通じて重要なテーマであったこと、マネやピカソも闘牛を重要なモチーフにしていたことなどが展示を通じてわかるようになっている。
アメリカ人小説家のアーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)もまたしかり、である。
4章
そして4章は「19世紀カタルーニャにおける革新 CATALONIA AND THE MODERNITY IN THE NINETEENTH CENTURY」。
ここではまず、マリアーノ・フォルトゥーニ(Mariano Fortuny 1838-1874)の版画制作の紹介がなされている。
フォルテゥーニはスペイン・カタルーニャ地方のレウスという市の生まれである。
レウスといえば、あのアントニ・ガウディ(1852~1926)の同郷ということになる。
ガウディも万博との逸話を残しているが、フォルトゥーニも実は万博に作品が出展された画家である。
筆者所蔵の1900年パリ万博の美術展カタログによると、「スペイン(ESPAGNE)」セクションのところに次のような記述がある。
Fortuny y de Madrazo(Mariano)
38. Portrait
つまり、1900年パリ万博に『Potrait』という作品を一点出展されているということだ。
ちなみに38.というのはスペインセクションの中の作品番号である。
すでに作家死後の出来事である。念の為1889年パリ万博の出展リストもチェックしてみたが、フォルトゥーニの名前は出てこなかった。1889年パリ万博時には出展されていなかった模様である。
また、この1900年パリ万博のスペインセクションには、ピカソも出展している。同じ資料によると次のようにある。
Ruiz Picasso (Pablo)
79. Derniers moments,
これは<34>ピカソ『アヴィニョンの娘たち』は万博に出展されていた!? でご紹介したように『臨終』(Last Moment)のことである。
展覧会では次に、バルセロナの芸術運動についての展示がある。
これも<34>でご紹介したバルセロナのカフェ「4匹の猫(Els Quatre Gatsアルス・クアトラ・ガッツ)」(1897-1903)やモダルニズマに関するものである。
ピカソが1899年から1900年にかけて「4匹の猫」に通ったことや、そこでカサヘマス(カレラス・カザジェマスとも 1881-1901)にあったことなどがわかる。
5章
5章は「ゴヤを超えて:20世紀スペイン美術の水脈を探る BEYOND GOYA: FINDING THE UNDERCURRENTS OF 20TH-CENTURY SPAIN ART」
ここには一眼で万博と関連していることがわかる展示があった。
ピカソの万博出展作品
その作品の作家の一人はピカソである。
『フランコの夢の嘘I』『フランコの夢と嘘II』(1937)という2つの作品は、あの『ゲルニカ』が発表された1937年パリ万博のスペイン共和国パビリオンで、複製や絵葉書として販売されたものだ。
この作品は2019年から2020年にかけて東京ステーションギャラリーなどで開催された「奇蹟の芸術都市 バルセロナ展」、そして、2022年にパナソニック汐留美術館などで開催された「イスラエル博物館所蔵 ピカソ−ひらめきの原点」展でも出展されていた。
この作品は1枚を9つのコマに分け(2枚なので合計18コマ)、漫画的に画面右上から左下に向けて、グロテスクな怪物に描かれたフランコの愚かな所業が描かれている。
2枚目の15コマ目以降は、ゲルニカの一部をなすと思われるものも含まれている。
ミロの万博出展作品
もう一人はミロである。
ミロの『スペインを救え』(1937 AIDEZ L’ESPAGNE)が展示されている。(写真撮影不可)
この作品は、上記「奇蹟の芸術都市 バルセロナ展」、そして、2022年にBunkamura ザ・ミュージアムなどで開催された「ミロ展―日本を夢見て」でも展示されていた。
この『スペインを救え』は、もともとスペイン共和国政府を支援する目的で発行される予定だったフランスの1フラン切手に使用されるはずだった。
結局切手は発行されなかったが、ポスターになり、ピカソの『フランコの夢の嘘I』『フランコの夢と嘘II』とともに1937年パリ万博のスペイン共和国パビリオンにて限定版として販売された。
このポスターは、下に文章が入っているバージョンと、入っていないバージョンの2種類ある。
今回の展示作品は入っているものだ。
この文章は「現在の戦闘において、私はファシスト陣営に対しては時代遅れの暴力しか認めない。その反対の陣営に対して計り知れない創造性を持った人々を認める。その創造性は世界中を圧倒する力をスペインに与えるだろう」(「奇蹟の芸術都市 バルセロナ展」図録P248より)という意味だということだ。
ミロはこの作品の他、同万博の同パビリオンに『刈り取り人』というカタルーニャの農民を描いた巨大な壁画を出展している。(現在消失)
6章
そして最後の第6章は「日本とスペイン:20世紀スペイン版画の受容 JAPAN’S RECEPTION OF SPANISH MODERN PRINT」。
ここでは、スペイン版画がどう日本に受け入れられてきたか、ということがテーマになっている。ピカソ、ミロ、タピエスなどの作品が紹介されている。
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版画というと地味なイメージを持つ人もいるかもしれないが、この展覧会は万博的視点からみてもとても見応えがあった。また図録も文章量も多く、読みごたえがある。
万博史にご興味の方にも、一見の価値あり、のおすすめの展覧会である。