『万博と殺人鬼』と『悪魔と博覧会』
この夏(2024年7月)、『万博と殺人鬼』という本がハヤカワ文庫から出版された。
この本はエリック・ラーソン作の『The Devil in the White City』という作品の翻訳版である。
もともとは2006年に『悪魔と博覧会』という邦題で文藝春秋から翻訳が出版されていた。
今回は、多分、来年、2025年大阪・関西万博が開催されるということもあり、あらためて『万博』という単語を入れて邦訳にしたのだろう。
原題の『The Devil in the White City』(『悪魔とホワイト・シティ』)だが、これでは「ホワイト・シティ」と聞いてすぐに1893年シカゴ万博の会場のこと、と一般の人はわかるはずもない。
ということでこの『万博と殺人鬼』というタイトルになったのだろう。
筆者は『悪魔と博覧会』は以前読んだことがあった。
今回、新しいバージョン『万博と殺人鬼』を改めて読んでみたが、やはり小説としても面白いし、なにより、筆者的には1983年シカゴ万博の詳細がわかるのがうれしい。
この小説は、『万博』(1893年シカゴ万博)の準備〜開催にいたるまでの関係者の苦労などと、「アメリカ最初のシリアルキラー」と呼ばれるH・H・ホームズという『悪魔』の大量殺人事件が交互に描かれている。
その両方が事実を元にしているのだが、シカゴ万博についての記述は作者が綿密に調べた「事実」に基づいているということなのである。
『万博と殺人鬼』の最後に「引用と資料について」という章があり、そこには次のように書かれている。
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博覧会とダニエル・バーナムに関する豊富な資料はシカゴ歴史協会の整理整頓の行き届いた資料館とアート・インスティテュート・オブ・シカゴのライアーソン・アンド・バーナム資料館にある。基本的な資料についてはワシントン大学のスザッロ図書館から得られた。私の知るかぎり、ここはとくに充実した使いやすい図書館である。ワシントンの議会図書館ではフレデリック・ロー・オームステッドの資料にどっぷり浸って楽しいひとときを過ごしたが、玉に瑕だったのは、ときとしてオームステッドの判読不能の手書き文字に悩まされたことである。
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そしてその後に何冊もの参考にした図書の名前が記してある。
この本には事実に基づくいろいろな興味深いエピソードが綴られている。
シカゴ万博で有名になったフェリス・ホイール(大観覧車)に関するエピソード(例によって万博が開幕してしばらく経ってようやくできた、事前の現地実証もできておらずぶっつけ本番だった等)や、
ソル・ブルームという人物が1889年パリ万博でも実施された「アルジェリアの村」を企画し、興行権を買い取ったが、アルジェリアの村人たちが間違って1年前に到着してしまう、というハプニングがあった、といった話など興味深い話が万歳である。
日本政府が「森の島」という島に「鳳凰殿」を建てることを主張した話なども紹介されている。
この「森の島」は、景観重視のためできるだけ何も建てない、という方針だったが、寺院風建築だったことと、日本政府が万博後は寄付する、ということで許可になったと紹介されている。
ちなみにこの「鳳凰殿」、フランク・ロイド・ライトがその優れた日本建築に驚いて大きな影響を受けたものであった。
「鳳凰殿」はその後も保存され、じつは1946年の火災で焼失してしまうまでシカゴに残っていたのであった。
フレデリック・ロー・オルムステッド
ちなみに、オームステッドというのは、ウィキペディアには「フレデリック・ロー・オルムステッド」と表記され、筆者も以前
<67>ニューヨーク・メトロポリタン美術館と万博①
<85>トランプ前大統領銃撃される
などで、「オルムステッド」と表記している都市計画家である。
ニューヨークのセントラルパークのデザインなどにも関与し、1893年シカゴ万博では開場計画を手がけ、この「ホワイト・シティ」と呼ばれた会場を作り上げた人物である。
作者も「これはフィクションではない。」と記している通り、この本に書いてあることは基本的には資料に基づいた「事実」なのである。
さて、この本にはシカゴ万博についての多くのエピソードが散りばめられている。
この短いブログでそれを全て網羅するのは難しいので、それらはおいおいいくつかの文章に分けて紹介していきたい。
さて、そういうわけで、今回は、この物語の『万博』パートの主人公の一人、ダニエル・ハドソン・バーナム(1846-1912)について述べたい。
ダニエル・ハドソン・バーナムと「フラットアイアンビルディング」
この本でもたびたび紹介されるが、バーナムはハーバード、イエール両方の大学への入学試験に失敗した。
シカゴ万博で多くのエリート建築家と仕事をする上で、そのことがコンプレックスにもなっていたことがこの本でも語られる。
しかしその後、設計事務所で働き、ジョン・ウェルボーン・ルート(1850-1891)と出会い、「バーナム・アンド・ルート事務所」を設立する。
この「バーナム・アンド・ルート事務所」はアメリカの超高層建築を手がけた設計事務所の先駆けであった。
1893年シカゴ万博の話が持ち上がった時、ルートも健在でバーナムとともに中心的にこのプロジェクトを手がけていたが、その後準備期間中の1891年に肺炎によって41歳の若さで亡くなってしまう。
バーナムはルート死去後、事務所を「D.H.バーナム&カンパニー」と改称して仕事を続けることになる。
そして設計したのが1902年竣工の、ニューヨーク・マンハッタンに今も異彩を放つ、高さ87m、22階建てのビル「フラットアイアンビルディング(Flatiron Building)」である。
今のマンハッタンでは22階といえば平凡な高さだが、完成当時はニューヨークでは超高層ビルの一つだった。
1902年といえば、1900年パリ万博からわずか2年後である。
そんな時代にこんな高層ビルができていたとは驚きである。
この三角形のビルは今でも観光客の人気となっている。
場所は5番街、ブロードウェイおよび22丁目の三つの通りで囲まれた三角地帯にたっており、23丁目が三角形の北の頂点になっている。
「フラットアイアン」という名前は鋳鉄製のアイロンにその形が似ていることからつけられた。
ニューヨークを訪れた人々の中にはこのビルを見たことのある人も多いと思うが、そういった今も残る建築物を設計した人物が、今から130年以上前に開催されたシカゴ万博の会場設計で中心的な役割を果たしたのであった。
この書籍には、あまりこれまで語られてこなかった1893年シカゴ万博のエピソードが満載である。
これから折りに触れてシカゴ万博のエピソードをご紹介していきたい。