「シカゴ・コロンブス世界博覧会」出展品の展示
東博本館2階2室に展示されていた「普賢菩薩像」を堪能した筆者は、そのあと1階に降りて、先日訪れた「ニール号の引き上げ品」の展示をもう一度確認し、そして、伊能忠敬の地図を見て、その後、1893年シカゴ万博への出品物が並んでいる大きな部屋へと向かった。
ここには、明治期の、輸出用に作られた工芸品で、1893年シカゴ万博へ出品された作品が十数点展示されている。
1893年シカゴ万博、当時の日本では「シカゴ・コロンブス世界博覧会」と呼ばれていたようだが、この万博は、正式には”World’s Columbian Exposition”(世界コロンビア博覧会)というもので、コロンブスのアメリカ大陸到達400周年を記念して開催された万博だ。万博ではよくあることだが、準備が遅れたために400周年の1892年ではなく、その1年後に開催されることになった。
「ホワイト・シティ」と「観覧車」、「動く歩道」
シカゴは1871年に大火災に見舞われ、この万博はその大火災からの復興記念という意味合いもあった。会場はジャクソン公園という市の中心部から8マイルほど南にあるところで、会場内は火災に強い煉瓦や石、鉄が使用され、建築には古代ギリシャや古代ローマの建築様式が取り入れられ、その建物群の白さから万博会場は「ホワイト・シティ」といわれていた。
また、このシカゴ万博は、世界初の、高さ約80メートルもある大観覧車(フェリス・ホィール)や、エジソンのゼネラル・エレクトリック社が運営した「動く歩道」が登場して大評判になった万博でもある。
そんな1893年(明治26年)シカゴ万博には19カ国が参加し、そのうちの1カ国は日本であった。
「博覧会事務局報告」によると、博覧会事務局総裁には農商務大臣が就くことになっていたらしい。就任時期順に、陸奥宗光→河野敏鎌→佐野常民→後藤象二郎→榎本武揚といった人たちが総裁として名前を連ねている。なんとかく時代感がわくのではないだろうか。
また、博覧会事務局の「評議員」には、林忠正、大倉喜八郎、金子堅太郎、そして渋沢栄一も名前を連ねている。
「世紀の祭典 万国博覧会の美術」展
実は、日本から海外で開催された、特に19世紀の万博へ出展された美術品については、2005年愛・地球博の事業の一環として、「財団法人2005年日本国際博覧会協会」が共催に入る形で、
という展覧会が2004年7月〜2005年3月まで開催された。
会場は東京国立博物館、大阪市立美術館を巡回し、そして最後に万博開催ご当地の名古屋市立博物館、という3ヶ所だった。
筆者も仕事として関わった展覧会だったが、この展覧会は、19世紀の海外の万博に出品された日本美術、そして、その万博に出展していたヨーロッパの画家たち(ドラクロワ、アングル、クールベ、マネなど)の作品を一つの展覧会で紹介したものだった。
この「万国博覧会の美術」展でも、今回筆者が視察した東博に展示されている作品がいくつか紹介されていた。
たとえば、
川之辺一朝(かわのべいっちょう)作『藤牡丹蒔絵手箱(ふじぼたんまきえてばこ)』
や
金田兼次郎の『牙彫鷹置物(げちょうたかおきもの)』
(「万国博覧会の美術」展では『象牙彫鷹置物』というタイトルになっていた)、
七代錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ)作『色絵金襴手鳳凰文飾壺(いろえきんらんでほうおうもんかざりつぼ)』、
そして、巨大な大皿である、精磁会社の『色絵花鳥文大皿』
(「万国博覧会の美術」展では『色絵金彩花鳥図大皿』というタイトルになっていた)
といった作品だ。
これらはいずれも、1893年シカゴで行われた「シカゴ・コロンブス世界博覧会」に「シカゴ・コロンブス世界博覧会事務局」から出品された作品である。
香蘭社と精磁会社
この最後の「精磁会社」というのは、今回の展覧会の解説によると、
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精磁会社は明治12年(1879)に、深海墨之助(ふかみすみのすけ)、手塚亀之助(てづかかめのすけ)、辻勝三(つじかつぞう)(常明)らが香蘭社から分かれ立ち上げた磁器製造会社です。
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とある。
この「香蘭社」だが、今も残る有田焼の名門である。東京・銀座にも店を構えている。
その香蘭社ホームページによると、
「今からおよそ三百年前、江戸文化が華麗に花開いた元禄の頃、初代深川栄左衛門(ふかがわえいざえもんが肥前有田で 『香蘭社』の前身となる磁器の製造を始めました。
そして日本に近代化をもたらした明治維新の激動期、有田焼は佐賀鍋島藩の一切の保護と支援を失いました。その再興に指導的役割を果たしたのが、八代深川栄左衛門でした。
強い自立の精神が、当時の選りすぐりの陶工や絵付師、それに陶商達を一つにまとめ結社を作りました。これが『香蘭社』です。」
とある。
また、『明治有田 超絶の美』(監修 鈴田由紀夫)という書籍には、
「香蘭社は1875(明治8)年4月に深海墨之助、辻勝蔵、手塚亀之助、八代深川栄左衛門によって設立された。日本最初期の陶磁器製造販売会社である。」
とある。その後、
「経営方針の違いから会社は1879年に分離して精磁会社が設立され、香蘭社は同年7月に深川栄左衛門の単独経営として再出発する」
と書かれている。
この分離した精磁会社が制作し、シカゴ万博に出品したのがこの大皿ということになろう。
この、巨大な作品を目の前にすると、この大皿がはるばるシカゴまで行って、世界の人たちを驚かせたのだとあらためて感じ入ると同時に、制作に携わった人たちや博覧会事務局の人たちをはじめ、その背後にある様々な人たちの苦労に思いを馳せてしまうのである。