<1>特集「ニール号の引き揚げ品」(東京国立博物館)

ウィーン万博
photo©️Nobuaki Kyushima

「ニール号」に関する情報が。。。

先日持ち帰ったいろいろなパンフレットの中に、東博の「東京国立博物館ニュース」第772号というのがあり、それを何の気なしにつらつらと見ていた。

そこには、先日すでに訪れた「東福寺」の特別展の案内等もあったが、P7に

「特集 ニール号引き揚げ品 —ウィーン万博をめぐる日欧の工芸文化交流—」

という記事を発見!

場所は、本館14室 3月21日〜5月14日、とある。(実際は「13室」のようだった)

早速、東博のHPでチェックする。
すると、情報を発見。HPから以下抜粋する。


1873年、日本にとっては初めての公式参加となるウィーン万国博覧会が開催されました。明治政府は前年に全国に呼び掛け、日本各地から特産物や工芸品を集めて出品し、また現地で展示するために名品も借り受けました。現地ウィーンでは、日本の産業に資するためにヨーロッパ各国の産業見本や工芸品・資料が収集されました。ところが、これらの物品を香港から載せたフランスの郵船ニール号は伊豆沖で大嵐にあい、沈没してしまいます。この時、持ち帰った品々や諸家から借り受けた名宝の多くが失われてしまいましたが、その後の引き揚げ事業によって今に至るまで当館に引き継がれている作品もあります。本特集は、ウィーン万国博覧会開催150年の節目として開催するもので、今に伝わるニール号引揚品の一部やその他のウィーン万博関係資料、またこのニール号の事故を受けてあらためて海外から寄贈された作品などを通して、初期の博物館の海外交流の様子を紹介します

担当研究員の一言

当館の始まりとも深いかかわりのある1873年のウィーン万国博覧会への参加は明治日本の国家的な事業であり、近代化と国際参加に大きな役割を果たしました。その陰に、博物館最初の大ピンチともいえるニール号の沈没がありました。今に残る作品や資料からは、当時の苦労はいかばかりだったかということがしのばれます。困難な出来事でしたが、後に続いていく外国の博物館との物品交換などの活動、そして今にいたる歴史にもその教訓は確かに活かされています。/遠藤楽子

むむむ、これはそうとう期待できそう。
早速行ってみることに。

さて、「ニール号」と聞いて、すぐに「ああ!」と思われた方は相当な万博通だろう。

「ニール号」を解説する前に、まずは、1873年にオーストリアで開催されたウィーン万博についてもう少し説明したほうがいいだろう。

今年は1873年ウィーン万博開催150周年

今年は2023年なので、ウィーン万博開催150周年ということになる。

ウィーン万博は1973年5月1日から10月31日までの間、ウィーンのドナウ河畔のプラーター公園という233ヘクタールの会場で開催された。参加国数は35カ国で、入場者数は726万人だったといわれている。

コレラと新型コロナウィルスと万博

この万博は夏にコレラが大流行する中で開催され、1000万人の入場者を見込んだものの結果725万人に終わり、大きな赤字に終わった万博だった。最近も新型コロナウィルスの影響で2020年ドバイ万博が1年遅れの2021年に延期されるなどのできごとがあったが、実は万博は150年前から感染症に影響されていたのである。

一方、この万博を契機として、ウィーン旧市街の要塞だった中世の城壁が取り払われ、現存する「リンク」(環状道路)が登場、また、ドナウ川運河の改造工事も行われ、ドナウ川が氾濫しなくなった、というポジティブな成果も結果的には残している。「リンク」「ドナウ川」も万博に関連した事項だったのだ。

明治政府として初めて万博に公式参加

また、この万博は、日本からは明治政府として初めて公式参加した万博としても知られる。

1872年正月に設置された日本サイドの「博覧会事務局」の総裁には早稲田大学を創設した大隈重信が、副総裁には佐野常民が着任した。

1867年に明治政府ができてまだ6年、ということで、日本サイドはかなり気合の入った展示をすることになった。そして同時に70人規模の日本人を派遣し、諸外国の技術や文化を貪欲に持ち帰る、という計画も立てていた。

また、ワグネルやシーボルトも日本出展には協力していた。

日本からウィーンに向かうことになる展示品は1872年、東京湯島聖堂にて事前に展示され、天皇皇后の巡覧ののち、一般にも公開された。

このときの展示物は名古屋城の鯱(しゃちほこ)、鎌倉の大仏の張子などで、日本代表団は国宝級のものも含む、2隻の蒸気船いっぱいの展示品を積んで、ウィーンを目指したのである。

「ニール号」の悲劇

さて、この万博で展示したものや現地で収集した工業品を日本に持ち帰ることになった。
オーストリアから香港へ、そして香港でフランス船「ニール号」にこれらを積み換えて日本に向かった。

しかし、なんと「ニール号」は伊豆半島の妻良沖で沈没してしまう。一部はその後引き上げられたが、その多くは失われてしまった。今もまだ海底で眠っているのである。

「澳国(おうこく・オーストリアのこと)博覧会参同記要」によると貨物193箱はオーストリアから無事香港に到着し、そこで「ニール号」に積み替えて送ったものの、1874年3月20日に

「豆州洋に於て暗礁に触れ即時沈没したる」

ということである(豆州とは伊豆国のこと)。
ただし、「金の鯱」を入れた箱だけは香港に積み残してあったということで幸運にも難を逃れ、後日無事日本に送り届けられた、という記述がある。

そして、沈没したニール号からの引き上げ作業が行われたが、一部しか見つかっていない。

今回、東京国立博物館で展示されているのは、その引き揚げられた品物の一部と、ウィーン万博関係資料、そして、この「ニール号」の事故を受けて、あらためて海外から寄贈された作品などである。

さっそく東博に行ってみた。

今回の展示では、展示ギャラリーの1室を使って、この引き揚げ品を展示している。決して大規模な展覧会というわけではなく、ギャラリー展示の規模であるが、なかなかどうして、とても楽しめる展示である(筆者だけ?)。

「澳国博覧會出展目録」の「東京府下買上之品」という資料、「澳国維府博覧会出品撮影」という写真、その写真にも写っている「鼈甲(べっこう)製鳥籠」が2種類展示されていた。

そのほか、日本から持っていった品としては、乾山の角皿など、一部海の中で変色してしまった作品が展示され、150年前の惨事が今更のように伝わってくる。

また、ウィーン万博を指揮した「シュヴァルツ=ゼンボーン総督像団扇(うちわ)」という興味深い団扇を見ることもできた。
これはなかなか興味深いもので、団扇の表面には総督のほほ髭いっぱいの顔が描かれている。
そして裏面には総督の頭を後ろから見たところが描かれているが、なんとその後頭部の大部分がが丸くくり抜かれており、その中には、世界地図(万博に集まった世界各国を表している?)の上にウィーン万博のメイン会場だった「産業宮」の絵が入っている、というしろものだ。
総督の頭の中は万博でいっぱい、ということを示しているのだろう。万博の総督、ともなるとそれくらい頭を万博でいっぱいにしないと務まらない、ということか。

 

尾形乾山の角皿

「シュヴァルツ=ゼンボーン総督像団扇」表面

「シュヴァルツ=ゼンボーン総督像団扇」(裏面)

また、その後イギリスから日本に贈られた品の展示もあった。壁にかかっていた解説には、


この悲報(筆者注:ニール号沈没)を受け、当時イギリスのサウス・ケンジントン博物館(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)館長であったフィリップ・オーウェンが発起人となってイギリスを中心とした美術工芸品が集められ、日本に贈られることになりました。これら寄贈品の選定にはインダストリアルデザイナーのクリストファー・ドレッサーがかかわり、自ら携えての輸送となりました。

とある。

そして、ウェッジウッド社ミントン社の製品やドイツ・バイエルンで製作された皿などの海から引き上げられた貴重な品々が展示されていた。

淡青地白彩花文双耳瓶
イギリス ウェッジウッド社 19世紀

色絵唐草文陶版(タイル)
イギリス ミントン社 1871年

ちなみに、このイギリスのサウス・ケンジントン博物館(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)というのも、世界初の万博=1851年ロンドン万博の成果であったりするものだが、この話はまた別の機会に譲ろう。

その他の万博関連展示も

また、「ニール号」の展示とは直接関係ないが、その隣の展示室には伊能忠敬の「実測日本地図」の中国・四国地方の部分が展示されていた。
伊能忠敬の「実測日本地図」は1867年の第2回パリ万博に出展されたという話もあるので、もしかしたらこの展示されているものがパリまで持っていかれたものなのかもしれない。

伊能忠敬『実測日本地図』

さらに言えば、そのまたちょっと先の展示室には1893年シカゴ万博に日本から出展された工芸品もいくつか展示されていた。

やはり、さすがに東博はすごい。

 

この展示は東京国立博物館の本館で5月14日まで開催されている。

ウィーン万博にご興味のある方は、一度ご覧になってはいかがだろうか?

 

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