<89>世界遺産・富岡製糸場と明治日本の万博出展

1873 Vienna
国指定史跡 旧富岡製糸場 の石碑 photo©️Kyushima Nobuaki

富岡製糸場

これも都心から日帰りで行ける万博関連施設である。

富岡製糸場といえば、1872年、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸工場である。

富岡製糸場サイン photo©️Kyushima Nobuaki

来場記念のサイン photo©️Kyushima Nobuaki

旧富岡製糸場入り口 photo©️Kyushima Nobuaki

ブリュナエンジン(復元機) photo©️Kyushima Nobuaki

明治維新以降、19世紀後半、日本の最大の輸出品は生糸であった。
当時、ヨーロッパでは生糸産業が「カイコのコレラ」(<78>話参照)といわれた繭をおかす微粒子病で打撃を受けていたこともあり、日本の生糸が注目されていたのである。

欧米諸国の生糸への需要は大きく、1870(明治3)年、明治政府は自国資本による官営模範器械製糸場をつくることを決定した。
日本にとっては、ヨーロッパのカイコの病気は輸出産業を成長させるチャンスになったのである。

そして、1872年に富岡製糸場が設立された。
設立には今回新一万円札の図案にも採用された渋沢栄一(1840-1931)も参加している。

1873年ウィーン万博で「進歩賞」を受賞

そして設立翌年オーストリアで開催された1873年ウィーン万博に、日本は明治政府として初めて参加することになる。

ここに富岡製糸場で生産された生糸も出展されたのである。
これにも渋沢栄一が関与している。

渋沢栄一のカットアウトも photo©️Kyushima Nobuaki

「渋沢栄一記念財団」「渋沢栄一伝記資料」には、富岡製糸場が設立され、渋沢が民部大蔵両省仕官時代の1872年(明治5年)2月20日に、

「澳国(おうこく)博覧会御用掛を仰付けられ、養蚕書を編纂す。」

という記述を認めることができる。
ここでいう「澳国博覧会」というのは直訳すれば「オーストリア博覧会」であるが、1873年ウィーン万博のことを指す。

渋沢は自身がウィーンに赴くことはなかったものの、日本にいて、「澳国博覧会御用掛」として、自身も設立に関与した富岡製糸場産の生糸の万博展示に関与したと思われる。

そして、このウィーン万博で富岡製糸場は褒賞を受けることになった。
それは「進歩賞」というものであった。

たとえば1855年パリ万博では「グランプリ」、「金賞」、「銀賞」、「銅賞」、「選外佳作」のような区分けになっていたが、この1873年ウィーン万博では、「美術」「新趣向」「進歩」「協力」「栄誉」の5種のメダルが授与されることになっていた。

そしてこの中で富岡製糸場は「進歩賞」を授与されたのである。

「世界文化遺産」かつ「国宝」

その後、この由緒ある施設のほとんどは大切に保管され、2005年7月には「国指定史跡」に指定された。
そして2006年7月には主な建物が「国指定重要文化財」となった。
その後、2014年6月には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として「世界文化遺産」に登録された。
さらに、同年2014年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となった。
富岡製糸場は「世界文化遺産」であり、かつ「国宝」なのである。

国宝「操糸所」photo©️Kyushima Nobuaki

国指定史跡 旧富岡製糸場 の石碑 photo©️Kyushima Nobuaki

富岡製糸場は、東京から日帰りできる距離にある、比較的気軽に訪れることのできる「万博関連施設」といえる。
一度足をのばしてみたらいかがだろうか?

 

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