トランプ前大統領への銃撃
前大統領で2024年大統領選でキャンペーン中のドナルド・トランプ氏(1946- 78歳)が7月13日、アメリカ東部ペンシルベニア州で演説中に銃撃を受けた。
ニュース映像で確認すると、演説中に右耳を押さえてすぐに演台の下にもぐってさらなる銃撃を避けた様子がうかがえる。
右耳付近から出血した様子がテレビに映されたが、命に別様はないとのことで一安心ではある。
容疑者(20歳)は射殺された。背後に何があったのかは今のところよくわかっていない。
もし、致命傷を与えた銃撃であったら世界中な衝撃となり、各国株式市場を含め各方面に大きな不安材料を与えたことだろう。
歴代アメリカ大統領で就任中に暗殺されたのは4人
歴代アメリカ大統領で就任中に暗殺されたのは4人。
それは、
ジェームズ・ガーフィールド大統領(共和党、第20代:1831-1881)
ウィリアム・マッキンリー大統領(共和党、第25代:1843-1901)
ジョン・F・ケネディ大統領(民主党、第35代:1917-1963)
の4人である。
その他、死亡はしなかったものの、銃撃を受けた大統領としては次の2人があげられる。
ロナルド・レーガン大統領(共和党、第40代:1911-2004)
また、大統領予備選の最中に銃撃を受けて死亡した人物としては、ジョン・F・ケネディ大統領の実弟であった
があげられる。
日本でも、安倍晋三元首相が2022年に銃撃を受け亡くなった。
その後、岸田首相も襲撃にあったが、無事だった。
万博開催中に万博会場で暗殺された大統領
このうち、万博会場の中で暗殺された大統領がいる。
それは、ウィリアム・マッキンリー大統領(共和党、第25代:1843-1901)
である。
ナイアガラの滝と1901年バッファロー万博
万博の第1回目となるロンドン万博から、ちょうど半世紀後にアメリカで開催されたのが、1901年バッファロー万博であった。これが20世紀初めての万博ということになる。
「バッファロー」と聞いても馴染みのない人も多いだろうが、「ナイアガラの滝」は誰もが知っている人気スポットだろう。
実はこの「バッファロー」、ナイアガラの滝の観光基地ともいえるニューヨーク州西端部の都市なのである。ニューヨーク・マンハッタンからナイアガラの滝の観光に行く人は、だいたいバッファロー空港まで飛行機で行くことになる。滝はそこから車で約35分ほどの距離だ。
そしてこのバッファロー万博、またの名を「汎アメリカン万国博覧会」は、このナイアガラの水力発電が可能にした、大規模で安価な電力供給を記念するものでもあった。
「ナイアガラの滝」も万博に関連するものだったのだ。
万博会場はバッファロー市北部の、現在のデラウェア公園とその北側のエリアのあたりで約148ヘクタールの敷地であった。ナイアガラの滝からは車で約30分の距離である。
シカゴ万博を意識した計画
この万博は、「汎アメリカン万国博覧会」として、アメリカが中南米諸国との「関係強化」、あるいは「調和」をアピールするものであったが、実際はアメリカの第三世界に対する覇権が色濃く感じられるものであった。新しく「植民地」とされたフィリピンからの100人の「人」を含む村全体の「展示」等、のちの1931年パリ植民地博覧会を彷彿とさせる内容もあった。
バッファローは、1893年に万博を開催したシカゴを意識しており、この万博を契機にシカゴと同じくらいの知名度と経済力を獲得したかった模様である。その結果、この万博の「事務総長」とでもいえる役職には、1893年シカゴ万国博覧会にも関与したアメリカの外交官ウィリアム・ブキャナンが指名され、そのブキャナン氏はシカゴ万博の会場計画に携わったフレデリック・ロー・オルムステッドをチームに引き入れた。あの「都市美化運動」を推進していた人物である。
結果、この万博はシカゴの「ホワイト・シティ」から進化(?)し、「レインボー・シティ」といわれる美しい彩色の会場となった。また会場中に彫刻が散りばめられ、非常に統一の取れた会場設計となっていた。会場全体を「1枚の絵」としてとらえ、パビリオンや彫刻はその一部として彩色・デザインされる、という考え方に基づいた会場計画であった。
万博のシンボルとしては、会場の中心に位置する「電気塔(The Electric Tower)」があった。これは約375フィート(115メートル)の高さで、夜になると4万以上の電球が辺りを照らした。これもナイアガラの大規模で安価な水力発電が可能にしたものだった。また、昼間は塔の上部から、会場全体のみならず、エリー湖、ナイアガラ川、その西側のカナダ国境の向こう岸まで見えたという。
また、企画者がシカゴ万博と同じだったせいか、この万博にもシカゴ万博のときとおなじく「ザ・ミッドウェイ」(シカゴのときは「ザ・ミッドウェイ・プレザンス」という名前だった)という娯楽街が登場し、「カイロ街」「メキシコ街」「月への旅」「ハワイ村」「クレオパトラの寺院」「エスキモー村」「ドリームランド」などの出し物が並んでいた。
「メキシコ街」では闘牛もおこなわれた。また、「ドリームランド」の入り口は30フィート(約9.1メートル)もある大きな女性の顔の彫刻になっていて、非常に印象的であった。中身は鏡を多用した迷路のアトラクションになっていた。
ここには日本からの出展「バザール・オブ・フェア・ジャパン」もあり、日本庭園と太鼓橋、人力車や芸者といった「展示・実演」がおこなわれた。
災難つづきの万博
しかし、とにかくこの万博は多くの災難に見舞われつづけた。
準備期間中の1898年には、キューバをめぐってアメリカとスペインの間に緊張が走り、ついに米西戦争に発展した。また、アメリカはフィリピンとの間でも米比戦争(1899~1902)を始めてしまった。
もともとこの万博は1899年に開催が予定されていた。あの19世紀を代表する1900年パリ万博の前年である。しかし戦争が勃発したため、1901年の5月1日に開幕日の延期を余儀なくされた。
また、工事の最盛期だった1900年の年末から1901年の頭にかけて悪天候に悩まされ、開幕直前の4月には雪にも見舞われた。結果工事は遅れ、「5月1日開幕」の予定は変更しなかったものの、開幕式典は5月20日に延期せざるを得なかった。
そして開幕した後も、5月と6月は集中豪雨に見舞われ、さらに6月には30年ぶりという寒波に襲われた。踏んだり蹴ったりである。結果、入場者数においても大苦戦した。
万博最大の「災難」
そして最大の「災難」とでもいえるのが、万博会場に来場したアメリカ大統領の暗殺であった。
ウィリアム・マッキンリー第25代大統領(1843~1901)は1901年9月5日に万博会場を訪問し、そのスピーチは来場者からの熱狂的な歓声を浴びた。
そして翌9月6日、大統領は午後に予定されていたレセプションの前に、ナイアガラの滝観光に出かけた。大統領はナイアガラ観光後、レセプションに出席するため万博会場内の「音楽の聖堂(Temple of Music)」へと戻った。
この「音楽の聖堂」は1万5千ドルをかけたパイプオルガンが設置され、非常に凝った装飾のほどこされた2000人収容のオーディトリアムで、そのドームは180フィート(約55メートル)の高さのあるものであった。
大統領は、この「音楽の聖堂」で多くの来場者と握手をしていた最中の午後4時7分、来場者の一人から銃弾を受けて倒れてしまった。
その後大統領は手当を受け、一時は持ち直したかに見えたが再び急変し、9月14日の朝に死亡してしまった。犯人は一人の無政府主義者だった。来場者もスタッフも信じられなかったに違いない。まさか「平和の祭典」であるはずの万博会場で大統領が暗殺されるとは……。
「聖地」となった「音楽の聖堂」
万博会場での大統領の暗殺は、全米に衝撃を与えた。万博は大統領が死亡した9月14日、翌15日と閉鎖された。今なら警備体制の不備等が懸念され、その後の来場者は激減すると思われるが、逆にこの事件がアメリカ人の愛国心に火をつけたのか、事件後には来場者数は急上昇した。そして銃撃現場である「音楽の聖堂」は、ある種の「聖地」となり、アメリカ中から来場者をひきつけ続けたのである。
しかし、結局前半の天候不良等による来場者不振を挽回することはできず、来場者数は目標としていた1893年シカゴ万博の2750万人に遠く及ばず、812万人に終わった。そして、万博主催組織は300万ドル以上の赤字を計上することとなったのだった。
バッファロー市にあるデラウェア公園近く、その北側を走るフォーダム・ドライブ。ここにはこの暗殺事件を後世に伝えるための小さな石碑が今でもたっている。
この石碑は「バッファロー歴史協会」が建てたもので、表面には「ここが汎アメリカン万博の『音楽の聖堂』があった場所であり、マッキンリー大統領が1901年9月6日、死に至る銃撃を受けた場所である」という意味の英語が刻字されているのである。