<36>東芝の株式非公開化のニュースとウェスティングハウス

EXPO
エレクトロとスパーコ Elektro and Sparko

東芝のニュース

この2023年8月7日、「東芝が株式非公開化に踏み切る」というニュースがメディアを賑わせた。

そもそも、このところの東芝の迷走は2015年の不正会計発覚から続いていたが、もとをたどれば、2006年の米国のウェスティングハウス社の買収がそもそもの発端だったという見方は多い。

原子力発電プラントに強みを持ったウェスティングハウス社買収をめぐる東芝の苦悩はいろいろな記事等を見ていただければ分かる通りである。

ただ、ウェスティングハウス自体は、経営破綻を経て、株主がいろいろと変わりつつも、現在も営業しているのである。

(日本語カタカナ表記について、「ウェスチングハウス」という表記もみられるが、ここでは「ウェスティングハウス」に統一する)

ウェスティングハウスと万博

実は、ウェスティングハウスは、万博にも出展し、いろいろなトピックスを残している名門企業であった。

そもそもウェスティングハウスは、アメリカ、ニューヨーク州生まれのジョージ・ウェスティングハウス(1846-1914によって、1886年に設立された会社である。

ジョージ・ウェスティングハウス
George Westinghouse

このジョージ・ウェスティングハウスという人物は発明家であった。

彼の最初の特許は1865年、彼が19歳のときのロータリー・スティーム・エンジンの発明によるものだった。
1869年にはコンプレッサー・エアーを使った鉄道ブレーキシステムを発明している。
それにともない、ウェスティングハウス・エアー・ブレーキ・カンパニーを設立した。
そして、1886年にウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーを設立。

エジソンとウェスティングハウスの「電流戦争(War of the Currents)」

この時彼は交流電気方式を採用した。

この頃、彼はイーロン・マスクの電気自動車会社「テスラ」の由来となったニコラ・テスラ(1856-1943などと協力し、同時代の発明家であるトーマス・エジソン(1847-1931の直流送電方式と交流vs直流の「電流戦争(War of the Currents)を戦うことになる。

トーマス・エジソン
Thomas Edison

ニコラ・テスラ
Nicholas Tesla

テスラは、父母ともにセルビア人で、当時のオーストラリア帝国で誕生した。

その後、紆余曲折の末、1884年に渡米。もともとエジソンのエジソンの電灯会社に勤めたが、交流方式を主張し、直流を主張するエジソンと意見が合わず、辞めることになる。

そのテスラをサポート・協業したのがウェスティングハウスだった。

そして、「電流戦争」が本格化することとなった。

結果、この「電流戦争」はウェスティングハウス側の勝利となり、交流がデファクトとなっていく。

1893年シカゴ万博

この戦争の勝者を大々的に知らしめたのが1893年シカゴ万博であった.
この万博は、「ホワイト・シティ」と呼ばれた会場で開催され、世界初の大観覧車「フェリス・ホィール」で有名である。

「ホワイト・シティ」と呼ばれた万博会場
Expo Site called “White City”

大観覧車(フェリス・ホィール)
FerrisWheel

この万博では、エジソンのゼネラル・エレクトリック社との戦いの末、ウェスティングハウスの交流電気方式が採用され、ウェスティングハウスは会場を50万個のライトでライトアップした。

また、ウェスティングハウスは二相交流発電機や配電システムを展示した。

一方、エジソンのゼネラル・エレクトリック社は電気方式では敗退したものの、万博会場内のミシガン湖に突き出たカジノ埠頭というところに「動く歩道」を出展し、運営した。

グレート・ウォーフの「動く歩道」
The Great Wharf, ’Moving Sidewalk’

1901年バッファロー万博

その後、ウェスティングハウスは1895年、ナイアガラの滝に水力交流発電機を設置し、ニューヨーク州バッファローに大規模で安価な電力を提供することが可能となった。

ナイアガラの滝
Niagara Falls

そしてそれを記念して開催されたのが1901年バッファロー万博である。

もともとこの万博は1899年に開催予定で計画されていた。

しかし、その前年の1898年にはキューバをめぐってアメリカとスペインの間で米西戦争が起こった。また、1899年にはアメリカはフィリピンとの間でも米比戦争が始まってしまった。

そういったこともあり、1901年開催に延期されたのである。

この万博は当時のマッキンリー大統領(1843-1901が万博会場で暗殺される事件が起こったことでも記憶に残る万博である。

レオン・チョルゴッシュが隠し持ったリボルバーでマッキンリー大統領に発砲する瞬間
Leon Czolgosz shoots President McKinley with a revolver concealed under a cloth rag. Clipping of a wash drawing by T. Dart Walker.

マッキンリー大統領暗殺を伝える石碑
The assassination site as it appears today

1939/40年ニューヨーク万博

さて、次にウェスティングハウス社が万博史に登場するのは1939年のことである。

1939/40年に開催されたニューヨーク万博は1789年に就任した米国初代大統領、ジョージ・ワシントンの就任150周年を記念して開催された万博である。

この万博はクイーンズ区の、現在フラッシング・メドーズ・コロナ・パークと呼ばれている公園で開催された。場所的には、現在のラ・ガーディア空港に近く、もともとコロナ・ダンプと呼ばれるゴミ捨て場の湿地帯だったところである。

その会場は広大で、面積約500ヘクタール、広さでは1904年のセントルイス万博(508ヘクタール)にわずかにおよばず万博史上第2位(当時)、という規模を誇っていた。

この地域を公園として再開発することも万博の目的の一つで、万博で利益がでた場合、200万ドルは優先的に公園の開発資金にあてられる予定になっていた。

この万博は、1939年4月30日〜10月31日、1940年5月11日〜10月27日の2年にわたる会期で開催された。

「明日の世界」(The World of Tomorrow、1939年)、「平和と自由のために」(For Peace and Freedom、1940年)をテーマとし、約210メートルの高さを誇る三角錐「トライロン」と、直径約60メートルの巨大な球体「ペリスフィア」をシンボルとした。この「トライロン」と「ペリスフィア」は、フーバー社の流線型掃除機やニューヨーク・セントラル鉄道の弾丸型列車「20世紀号」を生んだ、当時売れっ子のインダストリアル・デザイナー、ヘンリー・ドレイファス(1904~1972)が手がけたものだった。

ペリスフィア(左)とトライロン
Perisphere (left) and Trilon

  「ペリスフィア」の内部には、テーマ展示「デモクラシティ」という造語を名前にしたパノラマが展開されていたが、これは、労働人口25万人、人口100万人の未来の大都市をイメージしたものだった。

また、この万博では、「テレビ」「ナイロン繊維」「カラー写真」など多くの近未来の技術が展開されていた。

ロボット「エレクトロ」

そしてウェスティングハウス社はこの万博でロボットを展示したのである。

このヒト型ロボット「エレクトロ」(Elektroは、身長約2.4メートルで、歩く、話す、見る、歌う、臭いをかぐ、指で数える、腕を上げ下げするという動作ができたという。

現在も見ることのできる同社のWebサイトによると、次のような記述を見つけることができる。

「(エレクトロは)歩く、話すロボットであり、ヴォイス・コマンドにより歩き、約700語を話し、タバコを吸い、風船を膨らまし、自分の頭と腕を動かすことができた」
(Elektro, the walking, talking robot. He could walk by voice command, speak about 700 words, smoke cigarettes, blow up balloons, and move his head and arms.)

「エレクトロ」は1940年の会期ではロボット犬「スパーコ」(Sparkoを引き連れており、子どもたちの人気の的だったという。

エレクトロとスパーコ
Elektro and Sparko

5000年後まで開けてはならない「タイムカプセル」

また、ウェスティングハウスはこのニューヨーク万博で、5000年後まで開けてはならないという「タイムカプセル」を、万博会場地下約15メートルに埋める企画で評判となった。

実はタイムカプセルも万博生まれではあるが、世界初のタイムカプセルはこの万博で登場したものではなかった。(詳細は拙著「万博100の物語」第58話参照)

しかし、「世界初のタイムカプセル」ではなかったものの、この企画は大評判となった。

このタイムカプセルは万博が開催される前の年の1938年9月23日、ニューヨーク万博のオープン6カ月前に「ウェスティングハウス」パビリオンの敷地に埋められることになった。

 その形は長さ2・18メートル、直径20センチの細長い円筒ロケット形で、この中には、『ブリタニカ』のマイクロフィルム、紙幣、トランプとその遊び方、電気カミソリなどが収納され、現在も地中に埋まっている。

ウェスティングハウスのタイムカプセル(1938年)
Time Capsule of Westinghouse (1938)

1964/65年ニューヨーク万博

そして、これ以降、タイムカプセルは、万博で流行することになる。

それは1964/65年ニューヨーク万博でのことである。

このニューヨーク万博は、万博誘致でのシアトルとの国内競合のためBIEの公認万博ではなく、独自の万博として開催された。1939/40ニューヨーク万博と同じく、フラッシング・メドーズ・コロナ・パークで2年にわたり開催され、合計5100万人以上という大きな入場者数を記録した大規模な万博である。

この万博のシンボルであった「ユニスフィア」という高さ140フィート(約42・7メートル)のオブジェ自体が、「宇宙時代」を象徴していた。

この「ユニスフィア」は、アメリカの景観設計家ギルモア・クラーク(1892~1982の作品で、地球を表す球体の外側を3つの巨大なリングが取り囲んでいたが、それは、宇宙に打ち上げられた人工衛星を象徴していた。この90万ポンド(約408トン)ものスティールを使ったオブジェは世界最大の地球模型で、そのスチールはUSスチール社の寄付でまかなわれていた。金額にすると200万ドル(当時)であったという。

『ユニスフィア』
“Unisphere”

『ユニスフフィア』。右の彫刻は『ロケット・スローワー』
“Unisphere”. “The Rocket Thrower” (by Donald De Lue) on the right

万博への参加国は約80カ国、民間パビリオンは、あのディズニーが手がけた4館も含めて14館にのぼった。

さて、この1964/65年のニューヨーク万博で、ウェスティングハウス社が再度1939/40年と同じような形態のタイムカプセルを企画したのである。

この時のタイムカプセルに何を入れるかは、選定委員会による選択のほか、万博来場者の意見も含め、民主的に選ばれた。そして1965年の10月16日、1938年のタイムカプセルの横に埋められることとなったのである。

このとき埋められたものには、当時流行していたビキニの水着、ポラロイドカメラ、電動歯ブラシ、ボールペン、トランジスタ・ラジオ、コンタクトレンズ、ビートルズのレコード(!)、そして、ニューヨーク万博のオフィシャルガイドなどがあった。

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このように、万博でも多くの話題を提供してきたウェスティングハウス。

将来また、万博で明るい話題を提供してくれる日は来るのだろうか?

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